005.朝と夜の狭間の記憶


 実際、私たちがバトルしていた時間は数十分くらいだったと思う。その間に、蒼穹は黄昏へと徐々に表情を変えていった。寒さが厳しい冬の浜辺には、私と二匹のポケモンしかいない。
 ランターンのみずでっぽうを避けると、イーブイはその場にへたり込んだ。

「ブィー……」
「もう、疲れちゃったかしら。今日はここまでにしましょう。お疲れ様、イーブイ。ランターンもありがとう」

 イーブイを抱き上げると、すぐに私の腕の中で寝息をたて始めた。イーブイを起こさないように、静かに岩場へと移動すると、ランターンも岩場に沿って泳ぎ私の後をついてきた。
 岩場に腰掛けて、海を見つめる。冬の夕方は暗くなるのが早い。冷たい風が吹いて、少し震える。でも、もう少しだけここにいたかった。
 シルベの灯台の光と、星月の明かりだけが照らす薄暗さの中、ランターンは私を見上げた。

(レイン。元気、ないよ)
「……うん」
(元気だして。笑って)

 ピカピカ、ピカピカ。ランターンは、その特徴的なライトを点滅させた。
 彼らの光は、深海からでも海面まで届くと聞く。その光景はまるで、夜空の星が海の中で輝くようだった。

「貴方は本当にお星様みたいね。ランターン」
「レイン」

 脳に響く声じゃない、聴覚を直接震わせる声に、思わずビクリと体が震えた。ランターンにもその声が聞こえたらしく、海の中に潜っていってしまった。
 私が振り向くよりも早く、肩に上着が掛けられた。私の隣に腰を下ろしたデンジ君は、私の腕の中で寝息を立てているイーブイをそっと撫でた。

「デンジ君」
「レインのイーブイ、寝てるのか」
「えっと……サンダースたちと遊べて、はしゃぎすぎたみたい。あの、これ」
「冷えるだろ。着てろ」
「……ありがとう」

 デンジ君の上着からは、香水とは少し違うけど彼の匂いがして、なんだか落ち着いた。
 ランターンが潜っていった海面は未だ、ユラユラと波打っている。デンジ君の腰に下げられたモンスターボールの一つがカタカタと揺れると、彼は察したようだった。

「また、あの色違いのランターンと話してたのか? ポケモンの気持ちがわかるって、いいよな」
「うん。大切なお友達だもの。でも、ついさっき潜って行っちゃった」
「だってよ。片想いだな、おまえも」

 揺れるモンスターボールの中には、デンジ君のランターンが入っている。デンジ君のランターンは、海に住む色違いのランターンのことが大好きなのだ。でも、色違いのランターンにはどうやらその気がないようで、私やイーブイに会うためによく海面から顔を出す。
 そういえば、もう一人の幼馴染がいない。帰ったのかな。

「途中で抜けちゃって、ごめんね。オーバ君は?」
「リーグから呼び出しがあって帰った」
「私、ずっと浜辺にいたけど会わなかったわ」
「エルレイドが迎えに来たんだ。テレポートを使って帰っていった」
「じゃあ、ゴヨウさんね。エスパータイプって便利でいいね。そういえば、勝負には勝てた?」
「当然だ。切り札のエレキブルを出すまでもなかった。オレを誰だと思ってる?」
「ナギサが誇る輝き痺れさせるスター、デンジさんです」

 クスクス笑うと、大きな右手に頬を包まれた。頬に触れる手のひらは、ジムの改造をするときに工具を使うからか、所々に堅い肉刺ができていた。でも、とても暖かくて安心できる、私が大好きなデンジ君の手。
 でも今は、少しだけ、緊張する。
 ナギサの海をそこに集めたかのように、深い蒼色をしたデンジ君の瞳と視線がかち合って、目を逸らせない。

「さっき、どうしたんだよ」
「え?」
「泣いてたろ」
「……」
「オーバに何か言われたのか?」

 聞かれないわけはないと思ってはいたけど、できれば詮索しないで欲しかった。また、泣きそうになってしまう。
 私は首を横に振ると、視線を海に向けた。今はもう、海と空との境目もわからないくらいの暗闇だ。そこを、シルベの灯台の光が柔らかく照らしている。

「ねぇ、デンジ君」
「ん?」
「もう、十年になるんだよね。私たちが出逢って。私が、この海でデンジ君に助けられて」

 私には、今まで生きてきた十年間以前の記憶がない。
 一番古い記憶といえば、真っ暗な闇の中で冷え切った体を震わせていたことしか覚えていない。それ以降、気付いたら孤児院のベッドに横になっていたのだ。
 ドクターでもある孤児院の管理人――つまり父さんから話を聞くと、私は嵐の晩に海を漂っていたらしい。そこを見つけてくれたのが彼だと、デンジ君を紹介された。
 これが、私とデンジ君の出逢いで、デンジ君を通してオーバ君とも知り合ったのだ。
 私がデンジ君を慕う理由は、ただ助けてもらったからだけじゃない。自分のことを何も覚えていない私に、いろんなものをくれたからだ。
 この『レイン』という名前も、デンジ君が与えてくれたもの。腕の中にいるこの子だって、デンジ君が出逢わせてくれた。この『力』を受け止めて、素敵なことだと言ってくれた。
 本当に、デンジ君にはいくら感謝しても足りない。

「私のことを見つけてくれて本当にありがとう。あのときは雨で視界が悪かったんでしょう?」
「レインの周りが光ってたんだよ。それがなかったら、見付けられたか怪しい」
「そう……でもね、本当にデンジ君には感謝してるの。見付けてくれてありがとう。名前をくれてありがとう。仲良くしてくれてありがとう」
「……急に、どうしたんだ?」
「何でもないわ。ただ……たくさん、ありがとうを伝えたくなったの」

 そう。この距離が、離れてしまう前に。
 スマートフォンの時計を見れば、もう十八時を過ぎようとしていた。孤児院の夕食は十九時だから、それまでに帰ってお手伝いをしないといけない。
 私はイーブイを起こさないようにゆっくりと立ち上がった。デンジ君も、それにならう。

「そろそろ帰ろうかな。遅くなると母さんも心配するし」
「送る」
「大丈夫よ。今日は月が出ていて明るいし、シルベの灯台の明かりもあるし」
「いいから、黙って送られてろよ」

 ぶっきらぼうにそう言われて、デンジ君の大きな左手に右手をとられる。言葉とは正反対のデンジ君の優しい行動が、彼らしかった。
 歩く速度や歩幅だって、私に合わせて、ゆっくりで。デンジ君の背中が、すごく大きくて、すごく広くて。十年前、視線はほとんど変わらなかったのに、男の子なんだなぁってこんなときに思う。
 デンジ君の金髪を、シルベの灯台の光が掠める。ああ、なんて、眩しいの。

「デンジ君は」
「ん?」
「本当に、いつもキラキラしてるね」
「?」
「太陽みたい」
「ははっ。なんだそれ」

 デンジ君が、笑った。とても柔らかく、優しい笑顔だ。
 普段、デンジ君は人前ではクールに笑うことが多い。それが、私とオーバ君の前では素をさらけ出した明るい笑みになって。私だけの前では、今みたいに柔らかく綺麗に笑うこともある。
 ねぇ、その笑顔にはどんな意味があるの?
 大した会話もないまま、あっという間に孤児院の門前に着いてしまった。

「ここで大丈夫。ありがとう」
「ん」
「上着……」
「また今度でいい」
「……わかった。じゃあね」
「ああ。またな」

 遠ざかっていくデンジ君の背中に手を振って、見えなくなるまでそこに立っていた。
 またねと返せなかったのは、旅立つまでもう逢う気がなかったから。また逢ってしまったら、決意が鈍る気がして、ならなかった。
 それだけ、デンジ君の隣は心地いい。

「……さよなら」

 どうか、これが永遠の別れにはなりませんように。吐いた白い息と共に、呟いた言葉は冬の空に消えた。





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