132.置き去りにされた記憶


〜GEN side〜

 夢を見た。悪夢だ。わたしがわたしとしてこの世に生まれる前、別の『わたし』の最期の記憶。
 争いに満ちた世界に平和を取り戻すため、わたしはこの身に宿る全ての波導と引き替えに、希望となる光を地上に降り注がせた。しかし、自らの波導を使い切る寸前、絶望したのだ。これでは足りない。世界を守れない。
 そのとき、背後からすっと伸びてきた手が、わたしの手に重なった。清廉なる水のように美しいアイスブルーの髪が揺れた。彼女はとても美しく微笑んでいた。
 わたしが『世界』を守りたかった理由は、『わたしの世界』が生きる世界を壊したくなかったから。なのに。
 わたしは、わたしの世界をも犠牲にしてしまった。わたしは、一番大切な愛しい人を守れなかった。
 二人分の波導の力と、わたしたちの相棒たちの力により、癒しの光は完成し戦争は終わった。『世界』は救われた。
 わたしたちは大樹に守られながら、その場で寄り添い合うように永遠の眠りについた。来世でまた、巡り会えることを願って。

 ――ノイズの嵐が吹き荒れ、見ていたものが変わった。

 二つ目の悪夢を見た。わたしとしてこの世に生まれ、波導使いの末裔が生きる小さな島で幸せに暮らしていた頃の記憶だ。しかし、その幸せはある日、一瞬にして燃え消えた。
 辺り一面、見渡す限り火の海だ。野生のポケモンが人間を襲っている。その中心にいるのは、胸にGの勲章をつけている一人の少年だった。わたしとそう変わらない外見年齢だったのに、彼はすでに圧倒的な力を手にしていた。
 わたしを庇った父と母は死んだ。絶望に浸る暇もなかった。両親の最期の叫び。「あなたは生きて」。その言葉がわたしを突き動かした。
 だから、逃げなくちゃ。生きなくちゃ。
 修行こそしていたものの、まだ満足に波導を使いこなせない少年だったわたしは、タマゴを抱いた相棒のリオルと共に、幼い少女の手を引いて逃げるしかなかった。
 少女は慟哭していた。小さな手が震えていた。その手をぎゅっと握りしめた。もうこの手を離してはいけないんだ。守らなくちゃ。共に生きなくちゃ。
 次の瞬間、鋭い風がわたしたちを襲い、わたしは少女の手を離してしまった。少女の体は宙にさらわれた。わたしは夜の荒れた海に落ちて意識を手放し。
 最後に見たのは、育った島が燃えさかる赤だった。

 ――わたしを追い急かすように夢が入れ替わる。

 ミオシティに流れ着き、トウガンさんに拾われたこと。ゲンという新しい名前を与えられたこと。再び波導の修行を始めたこと。燃えた島から持ち出した時間の花の種を植えたこと。ヒョウタくんと鋼鉄島で遊んだこと。リオルがルカリオに進化したこと。新しい仲間たちを迎えたこと。
 そして十年後、さらわれたはずの彼女と再会できたこと。

 わたしの軌跡は、いつも悪夢と幸せが隣り合っていた。


* * *


 意識を取り戻した瞬間、わたしは飛び起きた。同時に、掛けられていた毛布がベッドから垂れた。スープの香ばしい香りが部屋の外から漂ってきている。キッチンへ行くと、レインちゃんが朝食の準備をしてくれていた。

「あ、おはようございます。ゲンさん」
「ああ……おはよう」

 わたしは思わず呆気に取られてしまった。昨晩はあんなことがあったというのに、彼女は何事もなかったかのように振る舞っているからだ。

「よかった。ゲンさんもちゃんと起きて」
「え?」
「昨晩、話していたら急に眠たくなりませんでしたか? きっと、ダークライの影響だったんですね。目が覚めたらクレセリアからもらった羽根が風化していたんです。きっと、悪夢から私たちを目覚めさせて役目を終えたんですね」
「そうなのかい?」
「はい。といっても私、どんな悪夢を見ていたのかも、昨晩ゲンさんと話していたことも、何も覚えていないんですけどね」

 そう言って、彼女は苦笑した。
 また、忘れたのか? 前世の記憶も、過去の記憶も、きみにとってはどうでもいいものなのか? だから、こんなにも、何事もなかったようにできるのか?
 わたしは思わず、彼女の腕を掴んだ。その細さを改めて知って、息を呑んだ。

「どうしたんですか? ゲンさん」

 アイスブルーの瞳が氷に覆われているように虚ろで、わたしは何も言えなかった。「そうだ! ゲンさん、見てください」と手を引かれて、彼女に貸している部屋に連れて行かれた。
 今日ここを出るからか、レインちゃんが使っていた部屋はベッドや棚などが綺麗に整理されていた。ベッドメイキングが終えられたその上で、丸くなっている小さなポケモンを抱き上げて、彼女は笑った。そのポケモンはまだ眠たそうに目をこすりながらきゅうっと鳴いた。

「タマゴが孵ったんです。リオルのタマゴだったんですね」
「あ、ああ」
「私、大切に育てます。そして、この子にたくさんの世界を見せてあげますね」

 無邪気に、とても嬉しそうに、彼女は笑う。心臓が軋むように痛んだ。昨晩、わたしはあんな酷いことをしたのに、彼女は何も知らないで笑顔を向けてくれている。
 ランターンが言ったことを思い出した。彼女を想っている人は他にもいる。その人と一緒になったほうが彼女は幸せだ、と。
 腕を伸ばして彼女を引き寄せた。薄い体をそっと抱きしめた。

「ゲン、さん?」
「……ごめんね。レインちゃん」

 無理強いはやめにしよう。もしも、今までの全てを自然に思い出してくれたのなら、また彼女と支え合いながら共に生きたい。でも、他に彼女の幸せがあるならば、彼女が何も知らないまま幸せに過ごせるなら、わたしは沈黙しよう。
 だから、これはわたしの最後の我が儘だ。最後の抱擁。最後の晩餐。
 朝食を食べたあと、わたしは船着き場まで彼女を見送った。

「ジム戦、頑張ってくれよ。今のレインちゃんならきっと勝てる」
「はい! 本当にありがとうございました」
「こちらこそ、楽しい日々を過ごせたよ。ミオに来ることがあれば、またいつでも寄って欲しい」
「はい! では、またいつか!」
「ああ。また、どこかで」

 船に乗り、彼女が遠く離れていく。彼女はいつまでも手を振ってくれていた。見えなくなるまで、ずっと、ずっと。
 振り返していた手を降ろし、わたしは隣に立つルカリオを見下ろした。この子の中にも、生まれ変わる前の記憶は存在している。

『よろしかったのですか?』
「ああ……おまえにはすまないことをしたね。おまえも、生まれ変わってからあのリオルに会うことを心待ちにしていたのに」
『それ以上に、わたしはゲン様と再会できたことをとても嬉しく思います』

 じんわりと目が薄い膜に覆われるのを感じた。情けない姿を見せないように、空を見上げて数回瞬き水滴を払った。それでも、震える声は抑えることができない。
 わたしは、泣き出してしまいそうな声でようやく「ありがとう」と呟いた。


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