124.チョコレート漬けの心臓


 ゆらりゆらりと船に揺られて、ミオシティから鋼鉄島へと帰り着いた。舗装されていない道は、足を踏みしめるたびにブーツの裏で小石がジャリッと音を立てる。船着き場周辺の海では、シャワーズたちが気持ちよさそうに泳いでいて、私は彼らに手を振ってからゲンさんの家へと向かった。
 鋼鉄島の片隅にひっそりと立つ平屋、そこが現在の私の住まいだ。両手が買い物袋で塞がっているルカリオのために、扉を開けてやる。力持ちのルカリオがいてくれると、ついたくさん買い物をしてしまう。
 この家の主――ゲンさんは私が来るまでまともな食事をとっていなかったらしい。自分のために作るのが面倒なのと、食自体に興味がないせいでもあるらしい。これは由々しき事態だと思った私は、なるべく健康的な食事を作ろうと奮闘している。修行の拠点としてここに置いてもらう代わりに、家事は私に任せて欲しいと申し出たのだ。
 ぐるり、部屋を見渡す。静まりかえった部屋に微かな寝息が聞こえてきた。ソファーの背から足だけが投げ出されて見える。
 体は隠れて見えなかったけど、背もたれから顔を覗かせるとゲンさんがそこで横になっていた。お腹には読みかけの本が伏せてある。今日は、修行がお休みの日なのだ。

「……眠ってる」

 意外……ゲンさんでも眠るんだ。睡眠は人が生きる上で必須なのだけど、ゲンさんには人前で眠るというイメージがない。
 ゲンさんは他人に隙を見せないようにしていると、時々感じる。初めて会ったときも、彼の周りには線が一本引かれている気がして、隙というものを感じられなかった。洞窟の中をスーツで歩く、というミスマッチな光景のせいかもしれないけれど。
 しかし、こうして一時期ではあるけれど一緒に住んでみて、彼も私たちと同じように寝て食べて呼吸をしていて、生きているのだと実感したのだ。

「起きない、わね」

 波導という力は、意識しなくても自分以外のオーラを感じ取ることができるらしい。例えばこの前、修行中に快晴を見上げ「夕立が来るから今日は早めに引き上げようか」と彼は言った。家に帰り着いた直後に、バケツをひっくり返したような雨が降ってきたのには驚いた。
 私の『力』とは違い、波導はポケモン以外に人間はもちろん、地上にある全てのオーラを感じられるらしい。だから、傍にいる私のオーラにもゲンさんは気付いているはず。体や脳が眠っていても、波導がそれを関知しているはずなのだ。
 それでも起きたりしないのは、信用されていると考えていいのかしら? そうだったら、嬉しいな。

「……」

 中性的な顔立ちのゲンさんだけれど、睫毛が意外と短い。鼻筋がスッと通っている。お肌も綺麗……羨ましいわ。唇は少し薄いかも……って。人の寝顔をジッと見て、何を考えているの私は……どうして顔が熱くなるの……。
 火照った顔を両手でパタパタと扇いだ。そんなことより、夕食の準備に取りかからなくちゃ。
 今日は卵が安かったから、それをメインとした洋食にしましょう。私が得意な卵料理といえば、デンジ君が大好きなふわとろのオムライスだ。サラダと具だくさんの野菜スープも一緒に作る。買い物を行く前に作っておいたムースが冷蔵庫の中でいい具合に冷えているはずだから、食後にデザートとして食べましょう。
 出来上がった料理を食卓に並べていて、思う。私は和食よりも洋食の方が得意みたい。というより、デンジ君がオムライスやハンバーグ、唐揚げやパスタといった洋食が好きだから、作ってあげるうちに上達していった、というほうが正しい。味付けも全部、デンジ君の好みで少し濃いめだ。その味をいつも、ゲンさんは黙って食べてくれるけれど……。

「レインちゃん?」

 心臓がビクッと揺れた。欠伸をかみ殺しながら、ゲンさんがキッチンに入ってきた。

「すまない。少し横になったら、そのまま眠っていたようだ。夕食の手伝いをするつもりだったのだけど」
「いえ、いいんです。私が居候の身なんですから、気にしないでください」
「ありがとう」
「じゃあ、料理が冷えないうちに食べましょう」

 ゲンさんと向かい合って席に着き、手を合わせる。スプーンでオムライスを掬い上げ、口に運ぶゲンさんに問いかけた。

「あの、味付けは大丈夫ですか? 卵の半熟具合とか、味の濃さとか」
「いや、ちょうどよくて美味しいよ」
「よかった。卵の固さとか、味付けの好みとか、もう少しこうして欲しいということがあったら教えて下さいね。デザートなんかは基本的に、普段作るより少し甘めの味付けにしているつもりなんですけど」
「ありがとう。わたしの甘いもの好きは、とっくにレインちゃんにバレているみたいだね」
「ふふっ」

 一緒に暮らしてみてわかったこと。それは、ゲンさんが大の甘党だということだ。
 本当に意外性のある人だ。大人の男の人なのに、大好物がチョコレートだというのだから、驚きだ。

「今まで食には無頓着だったけれど、レインちゃんが作る料理は本当に毎日食べたくなるよ」
「あ、ありがとうございます……わ、私が旅を再開しても、ちゃんとお食事とってくださいね」
「うーん……自分のためだけに作るとなると億劫なんだ。それに、一人と二人ではだいぶん食の進みも違うしね」

 確かに、一人で食べる食事はどんなに美味しくても、どこか味気なくて寂しく感じるものがある。誰かが美味しいと言ってくれるからこそ、作り甲斐があるものだ。私が旅を再開したら、ゲンさんの食生活がまた不健康なものに戻るのかと思うと心配だし、もっとちゃんとした食事を作ってあげたいとも思うけれど……。
 ここがどんなに居心地がよくて、ゲンさんの傍がなぜか懐かしくて、離れがたくても、私は旅を続けなければならない。だから、今のうちにたくさんの美味しいをあげたい。

「ゲンさん。私、お昼にチョコレートムースを作ったんです」
「本当かい?」
「はい。冷蔵庫に冷やしてあるんで、食後に食べましょう」
「ああ」

 柔らかい大人の微笑と共に、無邪気に目を細めてくれる彼が、なぜかとても愛おしくて、喉の奥がジンと熱くなった。





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