108.サヨナラの準備


 体温計は37.5度を表示している。ポケモンセンターに運び込まれたときよりもだいぶん下がったけど、基礎体温が低い私にとってはまだ高い。完治するまで、もうしばらくかかりそうだ。
 ため息をついていると、シャワーズが前足をベッドにかけて、私の顔を心配そうに覗き込んできた。

(マスター、まだお顔赤い。頭、痛い?)
「少し、ね。でも、倒れた日より楽になったから大丈夫よ」
(全く! プールに落ちたくらいで風邪を引くなんて、健康管理ができてないんじゃないの?)
「ふふ、そうね。……ごめんなさい、トリトドン。貴方の仲間が住む212番道路はもうすぐなのに」
(……)
「熱が下がったらすぐに出発するわ。早く、貴方を仲間のところに連れて行かなくちゃね」

 トリトドンは返事をせずにそっぽを向いてしまった。怒っている、のかしら。
 ちなみに、シャワーズとトリトドン以外はノモセジムのプールに預かってもらっている。私の風邪が治るまで、ずっとモンスターボールの中というのは申し訳ない。ポケモンセンター内で常に外に出しておける体型なのは、この子たちだけだから。
 ……喉が、渇く。

「こほっ。ちょっと売店に行ってくるわね」
(シャワーズも行く!)
(……ボクも)

 カーディガンを羽織り、スリッパを履いて、二匹を連れて部屋を出た。
 ポケモンセンターは、その名の通りポケモンたちの病院のことだから人間は看てもらえないけど、ジョーイさんに事情を話すと、数日間だけ滞在できる許可をもらえたのだ。
 おいしいみずを売店で買って部屋に戻る途中、後ろから声を投げかけられた。

「カラナクシ!?」
「え?」
「そのトリトドン、僕のカラナクシだ!」
(!)

 声をかけてきたのは、私と同じくらいか少し歳下に見える男の人だった。私の隣で、トリトドンが息を呑んだ気配が伝わってきた。男の人はトリトドンに駆け寄ると、嬉しそうに目を輝かせた。

「やっぱり! 僕のカラナクシは角の先が二つに分かれていたから、間違いない!」
「トリトドン……? そう、なの?」

 トリトドンは躊躇いがちにコクリと頷いた。
 この子はカラナクシだった頃、ギンガ団に捕らえられた。その際に、当時のトレーナーから置き去りにされた過去を持っている。
 この男の人が、トリトドンの本当のトレーナー……?

「この子をどこで?」
「えっと……ギンガ団に捕まっているところを、助けて」
「そうですか……この子を助けてくれてありがとうございます。ごめんな。僕、怖くて自分だけ逃げちゃって」
(……)
「もうそんなことしないから、一緒に帰ろう?」

 差し出された手を一瞬だけ見つめたあと、トリトドンは彼に背を向けた。拒絶、だ。呆然とする彼に、どう声をかけたらいいかわからなかった。

「あ、あの」
「……そう、だよな。自分を置き去りにした身勝手なトレーナーのところになんて、帰りたくないよな」
(……)
「貴方のお陰でこの子は助かったんだし、こうして立派に進化もしている。僕が言うのもなんですが、この子を大切にしてやってください」
「え、あの、私、は」

 深々とお辞儀をされて、私は何も言えなかった。この子は人間に対する信頼を失ってしまい、もうすぐ野生に戻るのだ。
 男の人が去ったあと、私は控えめにトリトドンに話しかけた。

「トリトドン、あの、よかったの?」
(……)

 トリトドンは相変わらず何も答えずに、私に対しても背を向けたままだった。





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