107.雨に溺れ恋に落ちる


〜side DENJI〜

 昔から女関係で困ることはなかった。この顔がいい部類だということは知ってる。ジムリーダーになってからは拍車をかけて女が寄ってきた。テレビや雑誌じゃオレはクールなナギサのスターとして取り上げられ、誰が書いたのか『気怠げな色香が漂う電撃王子』なんて表題の記事まであり、翌日ナギサジムには大量のファンレターが届いていた。あれは笑えたな、メディア効果すげぇ。クールなんて悪くいえば無関心、気怠げなんて無気力に近いのにな。
 そんな効果もあり、オレは女に困ったことがないというわけだ。
 といっても、付き合っているときはその人一人だけだったし、とっちゃ食いしていたわけでもない。それでも、オレが恋愛にかける熱は薄かった。好きと言われれば付き合い、別れようと言われたら別れる。いわば、来るもの拒まず去るもの追わず、だ。今までの恋人たちは悪くないと思う。ただ、オレの気持ちがどうしても彼女たちに追い付かなかっただけ。
 そんな中でレインは幼馴染であり、妹のような、自分のポケモンのような、そんな存在だった。夜の海から救い、小さな手を握りしめたあの日から、こんなオレでも守ってやらなきゃという気持ちにさせる、完全に庇護の対象だった。捨てられたポケモンの親になったような気分になっていたんだろうな、オレは。
 ナギサシティに来てすぐの頃は、暗い表情ばかりで常に周りに怯えていたようなレインがだんだん明るくなり、様々なことを克服していく姿を見守った。大切な幼馴染に向けるのは、妹のような、自分の手持ちポケモンへ向けるような、そんな愛情だと思っていたから。
 だから、そこに恋心が芽生え始めていると自覚してからも、必死にそれを否定してきた。だって、今まで何人もの女を幸せにできなかったオレが、都合よくレインのことを幸せにできるなんて、思えなかったのだ。
 しかし、レインのことが好きだと認めざるを得ない出来事が、起きたのだ。

 ――あれは、しとしとと雨が降る日。ジムリーダーになって、まだ間もない頃だった。
 一日の業務を終えて、ポケモンセンターでエレキブルたちを回復させていたときのこと。微かに青ざめて、狼狽したレインに出会した。

『デンジ君……!』
『レイン。どうした? 顔色が悪いぞ?』
『イーブイがいなくなっちゃったの!』
『イーブイが?』
『ええ……お買い物に連れて行ったんだけど、少し目を離した間に……ナギサの中は探したつもりなんだけど、『力』を使ってもイーブイの気配が感じられなかったから、もしかしたら街の外に出ちゃったのかも』

 オレに説明している間も、レインはポケモンセンターの中に視線を彷徨わせ、イーブイを探しているようだった。いないとわかると、すぐに踵を返そうとする。その細い肩を掴んだ。

『闇雲に探しても見付からないだろ。オレのレントラーが回復を終えたら探すのを手伝わせるから、もう少し待ってろ。ポケモンもいないのに街の外に出るのは危険だ』
『……ええ』

 今にも泣き出してしまいそうな表情で俯く、レインの雨のような髪を数回撫でて、ロビーのソファーに座らせてオレも隣に座った。
 きっと、レインにとっては一分一秒だって惜しいに違いない。そわそわと何度も手を握り直したり、時折ぎゅっと目を閉じている。
 混んでいるからか、普段はすぐに終わる回復にも時間がかかり、オレの名前を呼ばれたのはしばらく経ってからだった。
 カウンターへ行き、ポケモンたちを受け取るだけのつもりでいたが、そこでジョーイさんから話しかけられ、思いの外時間をとられた。簡単に言えば「慣れないジム戦でポケモンたちが緊張しているようだから気を付けること」だそうだ。
 きっと、こいつらにジムリーダーのポケモンとしての責任が芽生え始めたのだろう。それはいいことだが、程良い以上の緊張はあまりよくない。
 次のジムの定休日にはみんなで浜辺に散歩に行き、帰ったらマッサージとブラッシングでもしてやろう。そんなことを考えながらロビーに戻ったら、レインの姿がそこにはなかった。
 オレは急いで外に飛び出した。

『レイン……! どこに行ったんだ』

 もしかしたら街の外に……と、そう言っていたレインを思い出し、嫌な汗がこめかみを伝う。
 ナギサシティから唯一伸びる道、222番道路は比較的整備がされてはいる道ではあるが、万が一野生のポケモンが飛び出したら……。
 腰に下げたモンスターボールの一つを取り、中のポケモンを呼び出した。

『レントラー、頼む。レインとイーブイを見付けてくれ』
『ガルッ!』

 がんこうポケモンであるレントラーは壁を透視する能力を持ち、逃げた獲物を追い詰めたり、危険物を捜し当てたり、迷子を見付けたりするときに重宝される。
 金に輝く眼差しが、222番道路を見据えた。

『ガウッ!』
『やっぱり街の外か』

 小降りの雨の中を222番道路方面に向かい、走る。
 だんだん、雨が強くなってきた。バチャバチャと足元に水が跳ねても、服が雨を吸い体が冷えてきても、気にならなかった。早くレインを見付けなければという、その一心だった。
 しばらくは222番道路を走っていたが、レントラーが脇の森に進路を変えたため、オレもそれに倣った。レインが野生のポケモンと出会していないことを、祈るばかりだ。

『レントラー、こっちにレインたちがいるのか?』
『ガルルッ!』
『無事でいろよ……っ!』

 雨音は強くなり、視界も悪い。正しい道を進めているのかはわからない。しかし、オレにはレントラーがいる。きっとこの先に、レインたちがいるはずだ。
 雷鳴が轟いて、雷光が一瞬だけ視界を白に染めた。その直後、遠くからポケモンの鳴き声と人間の――レインの叫び声が聞こえてきた。
 森の中でも開けた場所に着いた。そこでは、レインがルクシオの群に囲まれて大木に追い詰められていた。オレはすぐさま手を振りかざして、声を張り上げた。

『レントラー! かみなりだ!』

 雨の中、的中率百パーセントとなる雷の連発は、一撃も外さずルクシオたちに落ちた。でんきタイプのルクシオには効果は今一つでも、こちらの存在に気付かせるには充分だった。
 レントラーは重圧感のある鳴き声で唸り、鋭い瞳で相手を睨み付けた。力の差を感じたルクシオは、森の中へと散り散りに逃げ去っていった。
 レントラーをモンスターボールに戻し、大木に背を預けているレインに近付く。レインは怯えたような表情で、でも少しだけ安心したように息を吐いた。

『デンジく……』
『っの馬鹿!!』

 声の出る限り、怒鳴った。レインの肩がビクリと震えた。

『待っとけって言っただろ!? イーブイが心配だったのはわかる! でも、おまえに万が一のことがあったら意味がないだろう!?』
『ご、ごめんなさい』
『謝って済むかよ!!』

 レインの顔の脇に拳を叩き付けると、木の幹がミシッと音を立てた。息を呑み、肩を縮こまらせるレインを見下ろす。
 オレがレインに対して、こんなに怒りをぶつけたのは、初めだった。今まではどんなことがあってもレインを庇い、手を差し伸べてきた。だって、オレはレインのことが……。
 青ざめたレインの頬を、涙か雨かわからない液体が伝っている。沈黙が降りて、雨に打たれ、二人してずぶ濡れで。
 ふと、レインが胸にモンスターボールを抱えていることに気付いた。

『……イーブイは?』
『あ、あの。この、モンスターボールの、中に。ルクシオの縄張りに、迷い込んでた、みたいで、助けようと、私、モンスターボールの、中に、戻して』
『……は。イーブイが助かるなら自分はルクシオに襲われてもよかった、っていうのか?』
『デンジ、君』
『オレは、おまえのそういうところだけは、大嫌いだ』

 静かに、躊躇いなく、『大嫌い』と、はっきり言い放った。レインが大きく見開いた瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていって、それは雨に混じり頬に落ちた。
 自己犠牲。自分より他人を優先し、自分の幸せより他人の幸せを選び、自分が傷付くことで他人が救われるなら喜んで従う。そういう奴なんだ、レインは。まるで聖人だな。
 でもオレは……それを、優しさだと思えない。だって、レインのことが大切なオレの気持ちは、一体どうなるんだよ。
 イーブイが入っているモンスターボールを抱えて、慟哭を押し殺すよう何度もしゃくり上げるレインの姿を見て、だんだん怒りが収まってきた。同時に、本来なら迷子を見付けたときに最初に浮かぶであろう感情が沸いてきた。安堵感、だ。

『本当に……心配したんだぞ……っ』

 意識せずとも声が震えてしまう。人間が野生のポケモンに襲われる例は決して少なくない。軽い怪我で済むこともあれば、最悪、骨まで噛み砕かれて発見される場合もある。
 怖かった。レインがそうなるかもしれないと思うと、死ぬほど怖かった。
 よかった。レインが生きていてくれて……本当に、よかった。

『もう、勝手にいなくなるなよ』
『デン、ジ、君』
『頼むから……』

 そのまま、レインを抱きしめた。ああ、こいつこんなに小さかったんだな、と改めて実感すると同時に、誤魔化しようのない感情が浮かんできたんだ。
 オレは、こいつが、レインが――好きなんだ。妹に向けるような家族愛でもなく、幼馴染に向けるような友愛でもない。一人の人間として、女として、好きだ。失いたくないという想いと、この細い体が愛おしいという想いが、交差して、生まれた――いや、自覚した想いだった。
 ――オレは、レインが好きだ。
 オレが自分の想いを受け入れているとき、レインは『ごめんなさい……』と、絞り出すように呟いて、オレの胸にしがみついて、ただ泣きじゃくったのだ。


* * *


「こんな感じだったかな」

 レインのことを保護対象としてだけではなく、完全に恋愛対象として見るようになったのは、この事件が切欠だった。
 一歩間違えたらレインを失っていたかもしれない。その怖さはもちろん最たるものだ。しかし、自覚という行為から目を背けていたところで抱きしめてしまえば、もう誤魔化しようがなくなったのだ。

「それまでは好きとかそんなことより、とにかく守ってやらないと、って気持ちのほうが大きかったんだよな」
「……」
「その一件があってからは、さすがに自分の気持ちを認めるしかなかった。それに、料理を作りに来てくれたりとか、ジム戦の応援に来てくれたりとか、熱出したときに看病してくれたりとか、それまでレインがしてくれてたことも、なんというか、特別に感じるようになったというか、隣にいてくれるだけで……おい」
「あ、ああ」
「おまえが聞きたいって言うから話してんだろ。なんとか反応しろよ」
「……」

 「おまえら、俺の知らないところで青春してたんだな……」と、オーバはしみじみといったように呟くと、心底不思議そうに首を傾げた。

「そこまでして、どうしておまえらがくっついていないのかが不思議で仕方ないぜ。傍から見たらどこから誰がどう見ても付き合ってる距離感だぞ?」
「それは簡単だ」
「おまえがヘタレで気持ちを伝えられないからか」
「……」
「冗談だって。や、半分は本気だけど」
「……レインだよ」
「レイン? 確かに恋愛事に鈍そうだけど、でも、レインもおまえのこと好きだろ。どこからどう見ても」
「レインがオレを好きな気持ちは、幼い頃の気持ちそのままなんだよ」
「……!」
「それは、恋愛感情じゃない」

 恋い慕うような気持ちじゃない。レインにとってオレは、ある意味ポケモンにとってのマスターのようなものかもしれない。命を救い、名を与えた者に対する純粋なまでの信仰心と忠誠心。盲目的に神を崇める気持ちに近い。
 そんな存在であるオレが、付き合えと言えば付き合うだろうし、結婚しろと言えば結婚するだろう。しかし、それは本当の幸せではない。オレに切欠が訪れたように、レインにも切欠が訪れない限り、本当の意味で一緒になれない。切欠が訪れずに一緒になっても、きっと虚しさばかりが募っていくのだ。
 窓の外を見やる。しとしとと雨が降っている。レインも今、この雨空の下のどこかにいるのだろうか。





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