002.動き出した時計の針


――ナギサシティ――

 空は晴天。雲一つない青がどこまでも広がっている。海が近いからか、風は潮の香りを乗せて心地よく流れる。
 ここは、シルベの灯台とソーラーパネルを使った道路が名物の、ポケモンリーグの玄関ともいえる、太陽が照らす街――ナギサシティ。
 今日は絶好の洗濯日和だった。シルベの灯台の麓にある孤児院の広い庭で、私は干していたシーツに手をかけながら、イーブイに笑いかけた。

「いいお天気。シーツ、洗って正解だったわね」
「ブイブイッ」

 ご機嫌なイーブイは、洗い立てのシーツに顔を埋めている。太陽の匂いがいっぱいで、気持ちいいのかしら。
 このシーツでお昼寝したら幸せだろうな、とそんなことを考えていると、ふくよかな体格の女の人が近付いてきた。
 彼女が、この孤児院の管理者の奥さん。つまりは、子供たちの母親代わりの人。私をここまで育ててくれたのも、彼女だ。
 彼女の子供ともいえる私たちは、敬愛の意味を込めて『母さん』と呼んでいる。

「お疲れ様、レインちゃん。それが終わったら、もう今日の仕事はないから、イーブイちゃんと一緒に休んでちょうだいね。せっかく天気がいいんだから、散歩でもしておいで」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちだよ。ここで孤児院のお手伝いをして貰ってるんだから」
「いえ。母さんにはここまで育てて貰いましたから、少しでも何か返したくて」
「ありがとう。でも、レインちゃんももう大人なんだし、自分のやりたいことがあったら、ここを出て好きなことをしてもいいんだよ?」

 にこやかに笑う母さんの言葉に、一瞬、思考が止まった。心の内を読まれたのかと思ったけど、本人にその気はなく、偶然放った言葉らしい。
 私にとって、孤児院にいた時間はいい思い出ばかりじゃないけれど、母さんやお友達と出会わせてくれた素敵な場所に違いはなかった。帰る場所、なんだと思う。
 ずっと、母さんの傍で身寄りのない子供やポケモンたちの世話を一緒にしていく。つもり、だった。
 でも、本当は一つだけ、やりたいことがある。この場所にとどまっていては、何も変わらないことがあるの。
 私が孤児院を出たら、私がしていた仕事は誰がするんだろうとか、気になることもたくさんあったから、今までは口にできなかったけど。母さんの言葉に、背中を押された気がした。
 黙り込んだ私を誤解したのか、母さんは慌てたように言う。

「勘違いしないでね。出て行けって言ってるんじゃないんだから」
「わかってます……あの」
「なんだい?」
「実は、私」
「ワウッ!!」

 会話を遮ったのは、この孤児院を守り子供たちの遊び相手をしてくれているポケモン――ガーディだった。不審者以外には吠えないように躾てあって、いつもは本当に大人しいのに、今日は何度も吠えて、母さんのスカートを引っ張っている。

「あら、ガーディ。どうしたんだい? そんなに吠えて」
「ワンワンッ!」
「レインちゃん、お願いしていいかしら」
「はい」

 こんなときこそ、私の『力』の出番だった。
 洗濯籠を地面に置いて、がーディの傍に屈み込み、瞳を閉じて、意識を集中させる。すると、頭の中に男の子の声が響いてきた。

(男の子が、花瓶を倒して割っちゃった)

 ああ、だからこの子はこんなに慌てていたのね。
 私は閉じていた目を開くと、ゆっくり立ち上がった。

「誰かがロビーにある花瓶を割っちゃったみたいです」
「あら! 大変! 怪我してないといいんだけど。ありがとう、ガーディ。知らせに来てくれたんだね」
「ワン!」
「レインちゃんも、その力には本当に助かるわ」

 そう、これが私の『力』のひとつ。ポケモンの気持ちを、言葉を、感じ取ることができる力。
 人語がわかるポケモンがいるという話は聞くけれど、ポケモンの気持ちを正確に読みとることができる人間は、今まで生きてきて会ったことがない。
 この力が、幼い頃に他の子供たちから疎外された理由のひとつだ。でも、大人になった今は大して気にしていない。むしろ、素敵なことだって思えるようになった。
 ポケモンだけではなく、人間の考えまで読み取れるのではないかと恐れられたこともあったけど、あいにくこの『力』はポケモン以外の生き物やモノには通用しないらしい。
 ガーディに急かされている母さんの背中を見つめていると、彼女は思い出したように振り向いた。

「ああ。さっきの話の続き、今度聞くからね」
「……はい」

 話さなくちゃ、いけないんだ。私が本当に、やりたいこと。少しだけ、怖い、けれど。でも。
 そのとき、スカートのポケットの中に入れていたスマートフォンが鳴った。ディスプレイに表示された名前を見て、思わず息が止まる。なんて絶妙なタイミングでかけてくるんだろう。
 私は深呼吸をひとつして、電話に出た。

「もしもし」
『ん。オレ』
「デンジ君。どうしたの?」
『暇だから電話した』
「暇だから、って。いつ挑戦者が来るかわからないのに」
『暇だから停電させた、のほうがよかったか?』
「よくないです。電話でよかったです」
『だろう?』
「ふふっ。挑戦者、来ないの?」
『来るけど弱くて話にならないな。ってことで、暇なら話し相手になりに来いよ』

 ジムリーダーがそんな感じでいいの? と言い掛けたけど、なんだか、本当にデンジ君らしくて、思わず笑った。電話越しでも、彼の気怠げな表情がわかるようだった。
 デンジ君はでんきタイプを専門とする、ナギサジムのジムリーダーだ。彼のポケモンバトルの強さ故か、彼を満足させることができる人間やポケモンはそう現れない。今日のように、暇だからと呼び出されることも少なくなかった。
 どんな用事があっても、そのたびに私は彼の元へ向かう。彼の頼み、我が儘、願い。全てを断ることが出来ない、私にはその理由がある。

(サンダースに会いたい)

 脳内に響いたのは、聞き慣れたイーブイの声だ。ポケモンの強い感情は、私が意識を集中させなくとも、自然と『力』が発動して聞こえてくる。
 足元を見れば、私の電話の相手をわかっているからか、イーブイは小刻みにステップを踏んでいる。この子はデンジ君のサンダースと仲がいいのだ。
 私はイーブイの隣に屈んで、頭を撫でてやりながら口を開く。

「わかったわ。今日はもう孤児院の仕事が終わったし、イーブイもサンダースに会いたいって言ってるから、今から向かうわね」
『ああ』

 そうして、いったん電話を切って、再び起動させる。探す名前は、デンジ君のものじゃない。
 通話の履歴から検索すれば、目当ての人物の名前はすぐに見つかった。

「もしもし。シロナさんですか?」
『レインちゃんね。どうしたの?』
「はい。この前、相談していたことなんですけど」

 電話越しに聞こえる、穏やかで深い声の持ち主の、目を見開く気配が伝わってきた。彼女の声は包み込まれるようなアルトで、聞いていて心地いい。
 そんなことをぼんやり思いながら、私の口は後戻りできない言葉を紡ぐ。

「今度、トゲキッスを貸してもらえますか?」
『……決めたのね』
「はい……ナギサをシティを、出ようと思います」

 それから、一言二言話して、電話を終えた。
 早く行こうと言わんばかりに、イーブイが私の足にすり寄ってくる。私は脇に置いていた洗濯籠を抱え直した。

「洗濯物も取り込んだし。さあ、行きましょうか」
「ブイッ」
「今のうちに、たくさん遊んでおきなさい」

 賢いこの子は、私の言葉の意味を知っている。だからか、少しだけ寂しそうに、小さく鳴いた。





- ナノ -