88.だから嘘は嫌いなんだ
ガチャリ。玄関の扉を開いて体を滑り込ませた。ようやく帰宅できた、という感じだ。なぜか、今日は異様に疲れた。
久しぶりに、オレのところまでたどり着いたチャレンジャーが数名いたが、どいつもこいつも強くはないのに癖のある奴ばかりだった。耐久型のポケモンばかりを使うねちっこいバトルスタイルの奴。状態異常にさせる技をやたらと使ってくる奴。砂嵐パーティーで挑んでくる奴。様々だ。
特に砂嵐パーティーは、目に砂が入るわジムが砂で汚れるわで、とてつもなく苛ついたので、完膚なきまでにねじ伏せてやった。
「……ふぅ。やっとスッキリしたな」
「ライラーイ」
砂嵐のおかげで髪がザラつき気持ち悪いことこの上なく、いつもより念入りにシャワーを浴びた。部屋着に着替え、そのままベッドへとダイブすると、柔らかい温もりがオレを迎えてくれた。
ああ、このまま眠りたい……。
気持ちよく微睡んでいると、頬をツンツンとつつかれた。首だけを横に向ける。そこにいたのはライチュウで、手にはブラッシング用のブラシを持っていた。ライチュウも砂嵐の被害を受けた一匹で、オレと一緒にシャワーを浴び、その体毛は湿っている。
「ラーイチュ」
「ブラッシングをして欲しいのか?」
「ラーイ! ラーイ!」
「……明日じゃダメか?」
「チューッ!」
ダメーッ! とでも言うように、ライチュウは長い尻尾でオレの頭をペチペチと叩きながら、ぷうっと頬を膨らませた。
くそっ……可愛いな、犯罪的に可愛いな。
このライチュウ、自分が可愛いことを自覚して、なおかつそれを武器にするからたちが悪い。超絶に可愛いが、そのせいで甘やかし過ぎてしまい、多少生意気に育ってしまった。
念のために言っておくが、オレのライチュウは立派なオスだ。
「わかった、わかったから叩くな」
「ラーイ!」
のっそりと起き上がり、ブラシを受け取る。二、三回とブラシで毛並みを撫でてやれば、残っていた砂がパラパラと床に落ちていく。ブラッシングが終わったら掃除機もかけないといけないな。ため息をつくオレをよそに、ライチュウは気持ちよさそうに目を細めている。
「気持ちよさそうだな」
「チュウ」
「ああ、オレも何かに癒されてぇ……」
そう、例えば、ホウエン地方に生息するらしいプラスルとマイナンというポケモンを両脇に置いてハーレムを作りたい。癒されること間違いなしだ。ズイタウンの育て屋で見かけたらしく、レインが送ってくれた二匹の画像を思い出して妄想にふける。
……レインの声も、聞きたい、な。
そう思ったのと同時に、スマホが鳴った。ディスプレイを見れば、そこには望んだ文字がはっきりと映っている。『もしもし? デンジ君?』聞こえてきた声に思わず、ブラッシングの手を止めた。
「レイン? 久しぶりだな」
『ええ』
「何かあったのか?」
『えっと、スモモちゃんから聞いたの。デンジ君が、私のことを心配してくれてるって』
スモモ……ということは、もうトバリシティにいるのか。
この前のジムリーダーの会合で、心配していることを確かに漏らしてしまったが……レインに伝えたのだろうか。余計なことを言ってないだろうな、あいつ。
しかし、こうしてレインから電話がかかってきたのだから、上手く伝えてくれたのだろう。今度会ったときは飯でも奢ってやろう。
『野宿は今まで一度もしたことがないから大丈夫。変な人にも絡まれてないし』
「そうか。怪我や病気はしてないだろうな?」
『ええ。平気……あ』
「レイン?」
スマホの向こう側の空気が明らかに変わったと、手に取るようにわかった。これでもオレは、ジムリーダーの地位にいるポケモントレーナーだ。洞察力や判断力は優れている部類だと自負している。
『あ、ううん。何でも』
「ないわけがないだろ。言え」
少し強めの口調で言えば、しばし沈黙が訪れた。ライチュウが不思議そうにオレを見上げている。
レインは、オレに嘘をつけない。オレの言うことに、逆らえない。なぜならば、レインの世界の中心がオレだからだ。レインはオレのことを、自分を救ってくれた神様のような何かだと、疑いなく信じているからだ。……そんな大層なものじゃないのに、な。
案の定、レインは静かに話し出した。
『……この前、『力』を使って、初めて倒れちゃったの。そのまま五日間、目が覚めなかったみたいで』
「……は?」
『でっ、でもね、気を失ったときに人が通りがかったみたいで、ポケモンセンターに運んでくれたから』
『ほら、いつか私が話した、波導使いの人よ』って、それ男じゃ……いや、今は嫉妬している場合じゃないな。
『力』を使って倒れるなんて、オレが聞く限り初めてのことだ。レインだけが持つ『力』。ポケモンのためにある、レインの『力』。
いつだったか、自称幻のポケモン――シェイミが言っていたあの言葉。レインはポケモンに愛された存在、ということ。
……どんな『力』があろうと、レインは、レインだ。
「……レイン、『力』はもうあまり使わないようにしろよ」
『気を付けるわ……でも、この前は特別だったの』
「特別?」
『ええ。ロストタワーで、人間に恨みを持って亡くなったポケモンたちの強い憎しみが、私の中に入ってきて……不可抗力だったの』
「……そうか」
ろくでもない連中がいるのは確かだ。珍しいポケモンを捕まえて売りさばく奴ら、ポケモンを使い悪事を働く集団、そしてポケモンを実験材料に使う連中も中にはいる。
『……ごめんなさい。心配をかけないようにって電話したつもりが、逆に心配をかけちゃって』
「いや、いい。どんなことでも連絡しろよ。オレに心配かけないようにと黙った結果、レインに取り返しのつかないことが起こったとわかったら、オレは本気で怒るからな」
『デンジ君……ありがとう』
「とにかく、本当に無理はするなよ」
『はい。じゃあ、明日は早いから、そろそろ』
「ああ。おやすみ、レイン」
『……』
しかし、オレも大人になったもんだ。以前のオレだったら、きっと強制的に連れ戻していたに違いない……ん? 返事が、ない?
『……』
「レイン?」
『あっ! ごめんなさい。何でもないの。ただ』
「ただ?」
『……デンジ君にレインって呼んでもらえるのが一番嬉しいって、そう思ったの』
『おやすみなさい』と、はにかむような声色で紡がれたあと、通話は切れた。
ベッドに突っ伏して声にならない声を上げる。頬が熱くなっていく。こんな顔、ライチュウに見せられるわけがない。
「ライチューッ!」
「ああ、悪い悪い。途中だったな」
「ラーイッ!」
もう、大丈夫だろうか。体を起こし、ライチュウのブラッシングを再開しながら、ふと思う。
レインが言っていた、ポケモンの怨念。人間に恨みを持って死んだポケモンたちの、哀しい末路。こいつらには、そんな思いをさせたくない。
「ライチュウ」
「ライ?」
「おまえは、オレがトレーナーで幸せか?」
生まれながらに人間を嫌うポケモンはほとんどいない。ただ、環境汚染やポケモン乱獲といった人間の悪業を見て、人間を憎むようになるポケモンはいる。
だから、全ては人間次第なのだ。人間が愛情を持ってポケモンに接すれば、彼らは裏切ったりしない。どうか、それに気付いて欲しいと思う。
ライチュウは一瞬だけきょとんとしたあとに「チャア」っと心からの笑顔で笑ってくれた。この笑顔を曇らせないような人間で在り続けよう、と思う。愛しい命を抱きしめながら、レントラーやサンダースたちもブラッシングをしてやろうと思った。