84.雨の名前を呼んだ声


 雨が、止まない。ザアザアザアザア、ザアザアザアザア。激しい雨音は、まるで弾丸のように鼓膜を撃つ。私は、羊水に包まれた赤ん坊のように膝を抱えて縮まり込み、シーツにくるまり震えていた。
 怖い、怖い、怖い、こわいこわい……っ。
 コンコン。ふと、ドアをノックする音が聞こえてきた。私は恐る恐る、シーツから顔を出した。

『お客さんが来ましたよ』

 病室の入り口で微笑んでいるのは、私を診てくれているお医者さんだった。彼と入れ替わりに、小さな人影が病室に入ってきた。

『よお』

 太陽のような金の髪と、海のような青い目をした、男の子。海で溺れていた私を助けてくれた、あの子だ。また、来てくれた。初めて対面したときは、私が泣いちゃって何も喋られなかったから、だから、また来てくれて、本当に嬉しい。
 お医者さんは『二人でゆっくりお話ししてくださいね』と言って、病室から出て行った。男の子はベッド脇のイスに腰掛けて、私のことをじっと見つめた。

『何か食べたか? おまえ、ちょっと痩せ過ぎだぞ。調子が戻ったらもっと食べろよ?』
『は、はい』
『同い歳くらいだろうし、敬語はいいよ』

 男の子は何でもないようにさらりと言ったけど、その言葉は私の胸に小さな棘を残した。

『おまえ、歳は? 名前は? ナギサの子……じゃないよな。何で溺れてたんだ?』
『……わからないの』
『わからない……?』

 その言葉の通り、私は、私のことが何もわからないのだ。まるで、記憶を司る器官を誰かにいじられたように、何も、思い出せない。

『自分の年齢も、どこの出身かも、どうして海で溺れていたかも、わからないの。私自身の名前さえも……』
『記憶喪失、ってやつか?』
『うん……溺れたときの衝撃か、それ以前にも何かショックな出来事があったのかもしれない、ってお医者さんは言うんだけど』
『……そうか。じゃあ、おまえの家族も』
『今、探してくれてるらしいけど、たぶん見付からないだろうって……。お医者さんはね、体がよくなっても記憶が戻らないなら、孤児院に、ここに居ていいって言ってくれたけど』

 この世界のことは、わかるの。ポケモンと人間が共存する世界の最北の地、シンオウ地方。ここはシンオウ地方でも一番東にある太陽に照らされた街、ナギサシティ。生活に困らない程度の知識は、私の中に残っている。
 でも、それ以外は何もわからない。なにも、なんにも。
 私にお父さんやお母さんがいるなら、どうして来てくれないの? 私は迷子? 私は捨てられたの?

 ――ザアアアア。

 冷えた心を、雨の音が更に凍てつかせる。雨の音が、静寂を裂く。
 脳に直接響くような雨音に、手が、震えた。その震えに、目敏くも気付いた男の子が、更に眉を寄せた。

『どうした?』
『……雨が、怖い、の』
『雨?』
『雨だけじゃなくて、この窓から見える海も、夜になると真っ暗になる部屋も、怖いの』

 病院に運び込まれてから三日ほど経つけど、夢を見るの。何もない無音の暗闇の中に、沈んでいく体と意識。頭の先から爪先まで凍てつくような水に冷やされて、肺にまで水が入り込み息ができなくなっていく。意識が消える刹那に、微かに聞こえた雨の音。
 雨、海、暗闇。全部全部、怖くて、仕方がない。
 自分で、自分を抱きしめた。そうでもしないと、恐怖に飲み込まれてしまいそうで、怖くて。

『そっか』

 ふわり。頭に触れた、温もり。涙が溜まった目で、男の子を見つめた。男の子は、私の頭を何度も撫でながら、私の目をじっと見つめてきた。

「雨が降る真っ暗な海で溺れて、それがトラウマになったのかもな」

 ふむ、と男の子は無表情に眉を寄せる。その間も、彼の手は私の頭に触れていた。そこだけがふんわりと温かくて、じんわりと優しさが染み込んでくるようで、目尻から輪郭へと涙が伝った。

『レインっていうのはどうだ?』
『え』
『おまえの名前。シンオウじゃ珍しい響きの名前になるけど、雨って意味だ』
『私の?』
『ああ。で、年齢はオレと同じ十二。誕生日はナギサに来た日な。三日前だから……六月十一日』
『え……』
『よし、決定。あ。オレの名前はデンジだ』
『デンジ、君』
『ああ。じゃあまたな、レイン』

 デンジ君は『今度はオレのポケモンを見せるからな。待ってろよ、レイン』と言って、私の頬に伝う涙を上着の袖で拭うと、呆気にとられる私を残して帰っていった。
 レイン、レイン。私の名前……レイン。
 デンジ君が私のことをレインと呼ぶ声が、何度も頭の中で繰り返し再生されて、嬉しくて胸がドキドキする。
 レイン、雨、それが私の名前。六月十一日、ナギサに流れ着いた日、それが私の誕生日。今までの私は知らないけど、これが、新しい私。
 デンジ君と入れ違いに戻ってきたお医者さんは、私の話を聞いて微笑んだ。

『雨を見て辛くならないように、あの日が来るたびに恐怖を思い出さないように、デンジ君は貴方をレインと呼んで、あの日を誕生日にしたのかもしれませんね』
『! ……デンジ君』
『これから貴方の大切な存在となる人たちからレインと呼ばれるたびに雨が好きになれるように、誕生日を毎年祝うことで怖い思い出をいい想い出に変えられるように……ね』

 『これからよろしくお願いしますね、レイン』と、お医者さんは優しく微笑んで、私の名前を呼んでくれた。
 陽だまりのように暖かな気持ちが、体中を満たしていく。恐怖とは違う涙が頬を伝うのがわかった。あんなに怖くて仕方なかった雨の音が、だんだん遠ざかっていく気がした。


* * *


 雨が降りしきる道――215番道路。あまりに強くなってきた雨を避けるために、傘を閉じて大きな木の幹で雨宿りをしていたら、偶然ヒカリちゃんも後からやって来て、暇つぶしがてら私の昔話を話して聞かせていたところだった。
 シャワーズとポッチャマは、大木から離れて雨の中で遊んでる。ブーツに跳ねた泥水をハンカチで拭っていたヒカリちゃんは、私が話し終えるとゆっくり口を開いた。

「レインさんにそんな過去があったんですね……」
「ええ。でも、みんなにレインって呼んでもらえたから、苦手だった雨が大好きになれたの。泳げないし、暗いところはまだ怖いけどね」
「じゃあ、あたしももっとたくさん呼びますね! レインさん、レインさん、レインさん、レインさーん!」

 そう言いながら、ヒカリちゃんはぎゅっと私に抱きついてきてくれた。
 『レイン』それは私の一番大切な人がくれた、魔法の言葉。もっともっと呼んで欲しいって思う。それだけで私は、とても幸せな気持ちになることができるから。





- ナノ -