唇が紡ぐ言葉の続きを知りたくはなかった


(逃がさないようにと力を込めた腕は虚しく空を抱いた)



 明け方にふと目を覚ました。抱いていたはずの温もりがそこから消えていたことに気付いたからだ。レインはもう起きたのだろうか。あいつは朝に弱いというのに、珍しい。
 半分は未だ夢の世界に囚われている脳が、サイドテーブルに置いてあるデジタル式の時計の数字列を認識する。4:18……ようやくオレは違和感に気付いた。いくら何でも、起きるには早すぎる時間だった。
 ーーガチャン。寝室の外から何かが割れた音が聞こえてきた。
 胸騒ぎがする。オレはスリッパも履かないまま寝室を飛び出した。寝室は暖房による温もりが微かに残っていたが、廊下は凍えるように寒く一瞬で鳥肌が立った。ひたりひたり。自分の足音しか聞こえないことが、更に不安を煽る。
 レインはキッチンにいた。一番小さな明かりだけを付けて、シンクの前に呆然と立ち尽くしていた。なぜか、見慣れているはずの背中がとても小さく感じた。

「レイン」
「……デンジ、君?」
「どうしたんだ?」
「え……私は、ただ……水を飲もうと……」
「何か割れる音が聞こえてきたぞ」
「えっ……? ……あ。そう、私、手を滑らせてグラスを割っちゃって……ごめんなさい、片付けなくちゃ」
「レイン」

 危ないから止めろ。オレがそう言うよりも先に、レインはシンク内に飛び散ったガラスの欠片に手を伸ばしていた。そして、喉の奥で押し殺したような声を上げたかと思うと、反射的に手を引っ込めた。

「っ……!」
「レイン。ああ、もう。見せてみろ」

 本来なら眠っている時間帯に起きてしまい、些か苛立っているのかもしれない。少しばかり乱暴にレインの手首を掴んだ。
 レインの人差し指が切れていた。傷口から滲み出した血は柘榴の実のように丸い粒になり、表面張力の限界まで膨らんだあとはつうっと指を垂れていった。

「ほら見ろ。っと、救急箱どこに……」
「……」
「……レイン?」

 レインは自分の血を瞬きもせずに凝視していたかと思えば、次の瞬間、アイスブルーの瞳から涙を零し始めてしまった。救急箱を探そうとリビングに向かおうとしていた足が思わず止まる。
 痛みに怯えているわけではないだろう。血を怖がっているわけでもないだろう。怪我をしたからといって泣くレインの姿は、幼い頃の記憶にも存在しない。
 ならばなぜ、レインは泣いている?

「レイン。どうした? 痛いか?」
「ひっく……違う、の。痛いんじゃなくて、血を、見たら……っ」
「血がどうかしたのか?」
「私っ、夢を見て、ふっ……悲しくなって、怖くなって、落ち着こうとしたの……でも……っ」

 泣きじゃくりながら話すレインの言葉からは意味を汲み取ることができなかった。「前世で私は…」「あの人は自分を責めたまま……」「ゲンさん……」。
 レイン自身も、自分で何を言っているのか理解できていないように感じる。ただ感情に任せるまま、涙と嗚咽が冷え込んだ空気に溶けていく。
 ただ唯一「ゲンさん」という、あの波導使いの名前が出てきたことがオレにもわかった。こんな場面じゃなかったら、その名をレインが口にしてもオレは別に何とも思わなかったのかもしれない。
 しかし、レインがどんな夢を見たのか定かではないが、こいつの感情を激しく掻き乱したのがゲンだと推測したその瞬間。ふつりふつりと、煮えたぎるマグマのようにドロドロとした感情が、オレの中に押し寄せてきたのだ。

「……っ」

 オレは切れてしまったレインの指先を口に含んだ。レインの細い肩がビクリと震えたのにも気付かない振りをした。舌先で傷口をなぞるように舐めれば、口内に鉄の味が広がった。
 横目でレインの様子を盗み見る。レインは未だ泣き止んではいなかった。嗚咽こそ止まったようだが、アイスブルーの瞳にはいっぱいに涙を溜めていて、留まる限界を迎えるとそれは目尻や目頭から落ちていき、レインの頬をぐっしょりと濡らしていった。

「デンジ、君。聞いて、欲しい、の」
「……」
「あの、私、夢で」
「喋るな」

 聞きたくない。そう言わんばかりに、食らい付くように唇を奪った。涙で濡れたそこは少しだけしょっぱくて海の味がした。ビクつくレインの舌を追いかけて捕まえる。頭の中から思考を追い出して、ひたすら口付けに没頭した。
 聞きたくない。レインが泣いている理由も、今は何も知りたくない。レインにもあいつのことを考えて欲しくない。オレのことだけでいい。オレでいっぱいになっていればいい。
 唇を離してレインの顔を見る前に、頭をかき抱くようにオレの胸に押し付けた。ぎゅうぎゅうと息ができないほど、強く抱きしめる。レインは腕を宙ぶらりんにさせてオレのされるがままになっていた。ただ、時折啜り泣く声だけは微かに聞こえてきた。
 何があったのか、いずれ聞かなくてはいけないだろう。この夜をなかったことにはできない。
 しかし、今は、怖い。どうしようもないほど不安になってしまう。破れた世界での一件で知った、ゲンとレインの間にある深い絆が、時折、こうしてオレを不安にさせるんだ。
 だからこれはオレの我が儘。夜が明けたら全部聞く。レインが見た夢も、泣いている理由も、全部。レインが何か悲しんでいるのなら一緒になって悲しむし、悩むから。
 だから、今はまだ心の準備をさせて欲しい。レインがゲンのところに行くはずがないとわかっている。信じている。それでも万が一、この腕の中の温もりが別の男のところへ行ってしまったら、と考えただけで、どうしようもなく震えが止まらなくなるんだ。




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