世界が怖くていつもわたしは目を閉じる


(きみを殺す夢を見た)



 わたしは勇者と呼ばれる存在だった。世界を二分するほどの大規模な戦を癒しの光により鎮めたとし、人々から崇め奉られていた。
 戦地から戻ったわたしは城下町で人の波に飲まれながらも、達成感と安堵感に包まれていた。わたしは『世界』を守れた。『わたしの世界』を守ることができたのだ。これで、みんなが望んだ平和が再び訪れるのだと信じて疑わなかった。
 そのとき、人垣の向こうで揺れるアイスブルーの長い髪を見付けた。わたしが誰よりも、何よりも守りたかった人が、そこにいる。
 握手を求める人に軽く謝罪しながら、わたしは彼女へと駆け寄った。彼女は心の優しい人だった。無益な争いに心を痛める人だった。戦争が終わった今、彼女はとびきりの笑顔で笑ってくれるに違いない。
 雨のように流れる髪が垂れる肩に手をかけると、少しだけ胸が震えた。戦争を止めるために一度は死を覚悟した身だった。運命が少しでも狂っていればわたしはここにいなくて、戦争は未だ続き、彼女も命を落としていたのかもしれないのだ。
 こうして生きている彼女の体温に触れることができて、本当に戦争は終わったのだとーー『わたしの世界』を守ることができたたのだと、嬉しさが胸にこみ上げてくる。

「シャイン! これで戦争は終わった! もう誰も傷付かずに済むんだ!」
「すごいですね。さすがアーロン様。でも……」

 彼女がゆっくりと振り向いた瞬間、赤い水滴が流れた。
 彼女の肩に置いたわたしの手を覆うグローブに、赤黒い染みが不格好に滲んだ。戦争中に何度も嗅いだ臭いが鼻に纏わり付く。血だ。振り向いた彼女は血に塗れ、それでいて聖女のように美しい微笑を浮かべていた。

「私のことは救ってくれませんでしたね」

 ーーねえ? ……アーロン様。

 彼女はわたしの頬へと手を伸ばした。血に濡れた指先が触れる前に、彼女は壊れた人形のように膝を付き、血溜まりの中に倒れた。
 そして、わたしは思い知ったのだ。わたしは何一つ救えやしなかったのだと。わたしは確かに『世界』を守ったのに、それは『わたしの世界』を犠牲にした上で得た平和だったのだ。
 気付けば、わたしは口から血を流していた。鉄の嫌な味が口内に広がっている。
 嗚呼、これは彼女が受けた痛みだ。『わたしの世界』を犠牲にして『世界』を救ったわたしの罪の味だ。自身の命の灯火が消えていくのを感じながら、わたしはそっと目を閉じた。


 * * *


 冷や汗が滲んだシャツが背中に張り付いている。気持ちが悪い。水でも飲もう。
 わたしはベッドから降りてキッチンへと向かった。冷蔵庫を開ければブーンと空虚な音がした。孤独を掻き立てられたような気になり、目当てのものを取ると急いで扉を閉めた。
 手が震えてペットボトルの蓋を上手く開けられない。それでもようやく中身をグラスに注ぎ喉へと流し込むと、ようやく深く息を吐けた。
 ……悪夢を見ること自体は珍しいことではなかった。しかし、いつも見るそれは、たいてい幼い頃の記憶だった。炎に包まれた故郷と両親の無惨な最期は何年経っても忘れられないが、過去の悪夢を見る回数は格段に減ってきた。
 それは、実の妹のように可愛がっていた少女ーーレインちゃんが生きているとわかってからだった。彼女は今、過去を受け入れてここより離れた地で彼女を愛する者と共に、前を向いて歩き始めている。そう思うと過去の痼りが少しだけ癒された。彼女が幸せならば、それでいい。それでいいのだ。
 脇腹がキリッと痛んだ。目を閉じて痛みが鎮まるのを待ちながら、瞼の裏に先ほど見た悪夢を映し出す。
 ……幼い頃の悪夢を見なくなった代わりに、最近はわたしがわたしとして生まれる前のーー前世の悪夢を、よく見るようになった。
 『世界』を救うために、『わたしの世界』まで道連れにして、死なせてしまった事実。それが、何世紀と時を経てアーロンからわたしへと生まれ変わった今でも、影のように纏わり付いている。
 この痛みを、レインちゃんが思い出さなければいいと願う。思い出して欲しいと思った時期もあったが、それはわたしのエゴに過ぎない。幸せを手にしている彼女に、わざわざ思い出させるべきはないのだ。

「今日は新月、か」

 窓から見える夜空が墨汁のような暗闇であることを確認して、わたしは椅子に腰掛けて再び目を閉じた。眠るつもりはない。どうせもう夜というよりは朝の時間だった。
 時々、思うことがある。もし、生まれ育った島が燃えてしまったあの日に、わたしも命を落としていたらどうなっていたのだろうかと。あのとき、真っ暗な海で光を見付けられず溺れ死んでいたら、こんな朝を迎えることはなかったのだろうか。

「……シャイン」

 海に沈んだあのとき、走馬燈のように景色が移り変わる中、かつて愛した彼女の姿が飛び込んできた。あのとき、わたしは前世を思い出したのだ。彼女がわたしを救ってくれたのだろうか。否、死んでしまった彼女は今もわたしを恨み、簡単に死なせぬようわたしを生かしたのだろうか。
 あのとき、彼女が浮かべていた微笑みがわたしを責めているような気がして、残像が消えるわけもないのにさらに強く目を瞑った。




PREV INDEX NEXT

- ナノ -