ヴォルクナー


 これは夢だ。疑う余地もなく断言できるほど、目の前の光景は現実的にありえないものだった。
 響く銃声。鼻を掠める硝煙の臭い。むせ返る炎の熱。殺意を剥き出しにしているポケモンたちと、逃げ惑う人間たち。空は鉛色に染まり、川は干からび、森は枯れている。
 アビスという場所が本当に存在するのしたら、目の前の景色のような世界のことをいうのではないだろうか。

「ヴォルクナー! すぐそこまで敵が来ている! 気をつけろよ!」
「ああ」

 夢の世界の『オレ』は『ヴォルクナー』というらしい。名前を呼んだ男と同様に『オレ』も青い軍服を身に纏っている。傍らにいるレントラーは青い鎧を身に着けている。
 『オレ』はレントラーの透視能力を扱いながら上手いこと敵の死角に潜み、手にした銃の引き金を引く。パン、と乾いた音が鳴ると遠くで鮮血が飛ぶ。一つの命がなくなっても、この手には何の感覚も残らない。
 人の命を奪った実感がないとは、我ながら恐ろしい武器を生み出したものだ。乾いた笑みを浮かべながら、壁に背を預けてその場に座り込む。鼻先を擦り寄せてきたレントラーは、どこか不安そうにも見えた。

「ガル……」
「……もうすぐ、世界が終わるな」

 独り言のように呟いて空を見上げた。唸り声を上げるように、大気が蠢いている。人もポケモンも憎しみに支配されて、敵が尽き果てるまで戦おうとしている。
 きっと、みんな死ぬ。『オレ』が生まれた国の仲間も、友人も、ポケモンたちも、『オレ』自身も。そして、きっと。

「……まだ生きてるかな、あいつ」

 『オレ』の脳裏に一人の女の姿が浮かんだ。透き通るようなアイスブルーの髪を揺らす姿は儚げだが、同じ色をした瞳には強い光が宿っていた。
 中立国に所属する波導使いの女と出逢ったのは、何年前のことだっただろうか。もしかしたら、あいつはとっくに命を落としているかもしれない。もしくは、誰が始めたのかもわからない戦いを見限って逃げ出したかもしれない。
 どのみち、もう二度と逢うことはない女だ。そもそも、出逢ったのはあのときのたった一度きり。本当に出逢ったのか。あれは現実だったのか。もしかしたら夢ではなかったのか。そう疑ってしまうくらいあのときの記憶は朧げだ。
 誤って撃ってしまった女を手当しただけの記憶なのに、人間の脳というものは実に都合がいい。あのときの邂逅は、泡沫のように儚くも美しい出来事として『オレ』の中に息づいている。
 どうして、あの一瞬を共にした女の顔を思い出すのだろう。どうして、あの声に名前を呼ばれてみたかったと思ってしまうのだろう。どうして、世界の終わりが近付いたこのときになって、また逢いたいと思ってしまったのだろう。

「……は、オレは馬鹿だな」

 一目惚れ。運命。必然。そんな言葉で片付けられないほどの絶対的な出逢い。まるで魂そのものが惹かれたような感覚は初めてだった。
 考えるまでもない。『オレ』は、あの女のことが……。

「ガルッ!!」
「レントラー? どうし……た……?」

 何かの気配に気付いたレントラーが立ち上がり、天高く咆哮する。反射的に顔を上げると、視界いっぱいに広がった鉛色の空が、煌めいた、その刹那。
 それはまるで光の洪水だった。エメラルドグリーンの優しい光が天から地上へと降り注ぎ、人に、ポケモンに、大地に、染み入っていく。
 母親の羊水の中を揺蕩う赤ん坊はこんな気持なのだろうか。憎しみ、不安。全ての負の感情が溶けていくのがわかる。
 何の根拠もないのに確信した。これで戦争は終わる。どちらかが息絶えるのではなく、理解し合うという形で。
 そして、この優しい光の正体は……誰かの、命の灯。

「この光……まさか、あいつが……」
「ヴォルクナー!」

 遠くから仲間が『オレ』の名前を呼んだのと、乾いた音が鳴り響き、左胸に衝撃が走ったのは同時だった。レントラーが必死に傷口を舐めている。しかし、どう見ても致命傷だった。最後の最後で油断するとは、情けない。
 目が霞む。『オレ』を撃ったやつの顔すらわからないのは悔しさしかないが、自分が開発した武器で命を落とす日が来るとは、これも報いなのだろう。自身の好奇心を満たすために戦争に加担した『オレ』に相応しい最期だ。
 口いっぱいに鉄の味が広がる。これが死の味か。当然のことだが、不味くて仕方がない。
 瞼が閉じてしまう前に、もう一度光を見上げる。光の向こう側で、あの女が微笑んだ姿が見えた気がした。
 本当に、都合がいい幻覚だ。
 瞼が閉じきったとき、『オレ』の頬を生ぬるい液体が伝い落ちていった。その感覚を最後に、『オレ』は、『ヴォルクナー』は、死を迎えたのだった。


 * * *


「……く……ん……デンジ君……」

 暗闇の向こうからオレを呼ぶ声を認識したその瞬間に、オレの意識は覚醒した。背中を蹴り飛ばされたように勢いよくベッドから起き上がる。
 眠っていたはずなのに、今しがた全力疾走でもしたかのように呼吸が乱れている。背中まで冷や汗がびっしょりで、服が肌に張り付いている感覚が気持ち悪い。心臓を鷲掴むように左胸を掻き毟っても、そこは変わりなく鼓動を刻んでいる。

「デンジ君……」
「……レイン」
「大丈夫? すごく魘されてい……」

 レインが言い終わる前に、心配そうな眼差しごと腕の中に閉じ込める。一ミリの隙間も許さないくらいに、強く、強く。
 抱きしめる。同じ時代に生まれ変われた奇跡にこれ以上ない感謝を込めて。
 抱きしめる。生まれ変わって想いを結ぶことができた事実を噛み締めて。
 抱きしめる。もう二度と、この想いを手放してしまわないように。

「デンジ君」
「よかった」
「え?」
「オレはオレとして生まれる前も、レインのことを想っていた」

 オレが見たのは夢ではなく、レインの言葉を借りるなら『前世の記憶』と呼ぶべきなのだろう。レインが話してくれたシャインとヴォルクナーの出逢いが引き金となり、オレの中に眠っていたヴォルクナーの最期を呼び起こした。
 レインから聞いて、少しだけ不安だったのだ。前世のオレは、前世のレインと出逢ったときに何の感情も抱かなかったのだろうかと。雷に打たれて心を焦がしてしまうくらいにオレはレインのことを強く想っているというのに、ヴォルクナーはシャインと出逢っても雷に打たれるどころか、心に火花が散ることすらなかったのだろうかと。
 しかし、それは違うとわかった。オレは、ヴォルクナーは、あの一度きりの出逢いでシャインに心を奪われて、最期の瞬間にも彼女のことを想っていた。前世でオレとレインが結ばれることはなかったが、ヴォルクナーは間違いなくシャインのことを愛していた。
 それがわかっただけでも、十分だ。

「レイン」
「はい」
「もし、命を終えて別の誰かに生まれ変わったとしても、オレはまた絶対にレインのことを好きになる。何度生まれ変わっても、絶対に」
「……デンジ君」

 現在も、過去も、未来も、前世も、来世も。結ばれるとか結ばれないとか、そんなことは関係なくて。
 オレがレインを愛するということは、きっと魂の中に刻み込まれているのだ。

「そのたびにオレのことを好きにさせてみせるからな。覚悟しておけよ」
「……はい。何度生まれ変わっても、デンジ君は私を見付けてくれる。信じてるわ」


 重ねる唇に誓う。オレの全てをレインに捧げる、と。



2022.02.11 

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