もう、傷つくことを恐れないよ


(私はただ逃げてただけだった。あの方のためなんて思い込んで、本当は自分が傷付きたくないだけだった)



 最近、私は洞窟の先にある湖に一人で来るようになった。ジーランスもお気に入りの、あの湖だ。あそこは人間、そしてポケモンさえも滅多に見かけないような秘密の場所だから、考えごとをするにはもってこいの場所なのだ。
 海水が満ちた湖の縁に腰掛け、足を浸し、上半身は草の上に横たえて、目を閉じる。静か。まるで水の中にいるように何も聞こえない。こうも静かだと、時間が止まっているようにも感じる。部屋にいると秒針が聞こえてきて、何もかもに置いて行かれるような気持ちになってしまうから。
 ーーちゃぽん。水面が揺れる音と、一つの波導が近付いてきたことを感知した私は、上半身を起こした。

(どうした? 浮かない顔だな)
「ジーランス」
(最近、いつもそのような顔ばかりしているな。シャインは)
「そ、そう……?」

 私は嘘が下手で、隠しごとをしても表情ですぐにバレてしまうらしい。小さい頃、うっかりお皿を割ってしまい、怒られるのが怖くて黙っていたときも、母さんにはすぐにバレていたっけ。
 今回も似たようなものだ。最近の私は、以前にも増してアーロン様のことばかり考えるようになっていた。
 舞踏会で一緒に踊れないと私が言ったあの日以降も、アーロン様は普段通りに接してくださった。ただ、以前にはなかったぎこちなさが、私たちの間に僅かながら付きまとうようになった。そして、修行のあとに行っていた舞踏の練習も、当たり前だけれどなくなってしまった。私が望んでいた通りになったはずなのに、心が、痛い。

(今日は夜に舞踏会があるのだろう? 楽しみではないのか?)
「! ど、どうしてそれを……」
(本当だったのか。いや、最近シャインがここに来ると、一人でダンスステップの練習をしていたようだったから、言ってみたのだが)
「あ、あの」
(安心しろ。自分の主にも、国の誰にも話さん)
「ありがとう」

 どうしてかしら。ジーランスになら話せるような気がした。リオルにも、ルカリオにも、リーン様にも、誰にも相談できなかったことを、ジーランスになら話しても大丈夫のような気がした。

「ジーランスの言うとおり、今日は舞踏会があるの。私はそれに出席して、アーロン様と一緒に踊る予定だったの」
(ほう。波導使いがお前を誘ったのか?)
「ええ……勿体ないお言葉をかけてくださったわ。私、一度は頷いたの。でも、この前……やっぱり踊れませんって断っちゃったの」
(何故?)
「……私なんか、平凡で、何の取り柄もなくて、ダンスすらうまく踊れないから……アーロン様の隣に立つのに相応しくないの」
(……)
「アーロン様にはもっと……それこそリーン様のように、綺麗で凛としてる女性のほうが、きっと」
(それは波導の勇者が言ったのか?)
「え? いえ、違うわ。でも」
(シャイン。お前は自分のことしか考えていない)
「え……?」
(波導の勇者はお前になんと言った? 自分に相応しくないと言ったのか?)
「それは……」
(そもそも、相応しいとは何だ? それはお前が決めることなのか?)

 予想外に厳しい言葉が次々と突きつけられた。でも、全てを理解して自分の中に取り込んでいく。ジーランスは、私のことを想って導となる言葉を与えてくれているのだから。

(思い出してみるといい。波導使いがどんな態度でお前に接してきたか。自ずと、波導使いの気持ちがわかるのではないか?)
「……アーロン様は」

 アーロン様はいつも凛としていて、人に弱さを見せないような方だった。優しく、時に厳しく、私をご指導してくださった。お休みの日には、城下を案内してくださったり、森の秘湯を教えてくださったりと、どんなときも私を気遣ってくださった。それは私がアーロン様の弟子だからだと思っていた。でも。
 舞踏大会に一緒に行かないかと誘ってくださった直前、アーロン様はソワソワして落ち着かなそうだった。でも、私がはいと答えたら、ホッとしたように笑ってくださった。やっぱり踊れませんと私が断ったときは、もちろん怒らせてしまったけど、それ以上に、アーロン様の後ろ姿は悲しそうだった。
 一緒に踊ることを楽しみにしていたのは自分だけだったのか、と。アーロン様は確かにそう仰った。その言葉の意味を、私は少なからず理解していた。本当はそうじゃないかと期待していた。でも、そんなはずないとも思っていた。だって、アーロン様は雲の上にいるようなとてもすごい方で、そんな方が……私を想ってくださってるなんて。

「そんな……アーロン様も私を……なんて……考えるだけでも烏滸がましいのに……」
(シャイン。お前は自分を卑下しすぎではないか?)
「そんなつもりはないわ。ただ……相手はあのアーロン様だから余計に……」
(確かに、人間の中で波導使いは特別な存在かもしれんが、それが本当の姿なのか?)
「本当の姿……?」
(そうだ。波導使い、己の師、戦争を終わらす希望の光。お前が見ているあの男は、本当にそれだけか?)
「……アーロン様、は」

 アーロン様。波導使いとしてではなく、一個人としてのアーロン様は……一言で言うと、人間味のある方だと思う。
 いつだったか、フォンダンショコラを作ってプレゼントしたときは、子供のように目を輝かせて喜んで下さったっけ。あと、自分ではお料理ができないみたいで……あ、何度かお部屋にお邪魔させていただいたときは、意外と散らかっていたっけ。いつかは、本に顔を伏せて眠ってらっしゃって、頬についた本の跡がなんだか可愛らしかった。
 そうだ、高名な波導使い様とはいえ、アーロン様は私たちと何も変わらない。甘いものが好きという一面もあるし、ちょっとだらしない部分だってある。ふと、少年のようなあどけなさを見せて下さるときだってある。とても素直で、正直で、真っ直ぐな方。
 人の些細な幸せを喜び、些細な悲しみに共感して心を痛めて下さるアーロン様。だとしたら、私はあの方を傷付けてしまったかもしれない。アーロン様は強い方だと、弱いところなんてないと思っていたけれど、私たちと何も変わらないのであれば。ううん、私たちより何倍も敏感で繊細な心の持ち主だからこそ。

「どうしましょう……ジーランス。私、アーロン様に酷いことを……」
(まだ間に合う)
「間に合う……かしら?」
(ああ。まずは正直に謝って、自分の想いを伝えてくると良い)
「……ええ。ありがとう」

 神様がいるとしたら、どうかお願いです。今夜だけでいい。私にありったけの勇気を与えて下さい。




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