小悪魔彼女


 風呂についているテレビの隅に表示されている時計が、午前0時を表示した。今の時間を改めて認識した俺は、テレビを消し、少し温くなってしまった湯を出て、浴槽の排水栓を上げる。湯が抜けていく音を背に聞きながら脱衣所へ入ると、ひんやりした空気に包み込まれて思わず身震いしてしまった。
 日付が変わったと言えば、今日から新年度が始まるな、と頭の片隅でぼんやり思うのと同時に、しょぼくれた目がパッチリと開いた。昔からそうだった。新年度を迎えると何となくワクワクしてしまうのだ。新しい何かが始まるような、そんな予感がしてしまう。
 部屋着を着て脱衣所を出ると、リビングルームの部屋から明かりが漏れていた。俺が風呂に入ったのは日付が変わるだいぶ前だったはずだが、俺の恋人はまだ寝ずに、起きて待っていてくれたらしい。

「悪い、エイル。風呂でうとうとしていたらこんな時間に」
「ブイー」

 ドアを半分ほど開けて、思わず目が点になる。聞こえてきたのは確かにエイルの声だ。しかし、その言葉は人間のそれではなく、彼女の相棒のものだったからだ。
 ドアを完全に開き、中に入って見た光景に、改めて思考が止まった。エイルは何故か、床の上に無造作に置かれたブランケットの上で丸くなっていたのだ。そのブランケットはエイルのイーブイのお気に入りで、いつもならイーブイがそこでくつろいでいるはずだ。

「なぁ、エイル。そんなところでどうしたんだよ。そこはイーブイの場所だろ?」
「ブーイッ」
「え」

 高い鳴き声と共に小首を傾げる仕草……いや、可愛いなおい。
 だらしなく緩んでしまいそうになる頬を引き締め、冷静になろうと努めた。やはり、エイルはイーブイの鳴き声を発するだけで、人の言葉を口にしないのだ。しまいには、イーブイが前足でするように、手で顔を擦るような仕草までやりだした。
 だから、可愛いんだって!と、謎にキレ散らかしてしまいそうになる。

 ふと、本来ならエイルが定位置としているソファーの左側に視線を向ける。そこでは、イーブイがクッションを枕にして寝息をたてていた。エイルがよくしているように、両手……イーブイの場合でいうと前足を揃えて、頬に寄せて。

 まさか、とは思う。しかし、これ以外に思い付かない。

「おまえがイーブイ……?」
「ブイブイッ!」

 エイルは鳴き声と共に頷いた。と、いうことは。

「じゃあ、ソファーで寝ているイーブイがエイルなのか……!?」

 いやいや。新しい何かが始まる予感がすると思いはしたが、まさか風呂から上がったらエイルとイーブイの中身が入れ替わっていたなんて、夢の中でも想像しないことだ。それが、現実に起きているなんて。俺が風呂に入っている間に何が起きたっていうんだ。
 そういえば、以前レインから聞いたことがある。人やポケモンの精神を入れ替えることが出来ると言われている、幻の水ポケモンがいるという話だ。あの時は何も意識せずに聞いていたが、まさか、目の前の入れ替わりはそれが原因なのか?
 整えられた毛並みをゆらゆらと控えめに揺すってみる。ふわぁ、と欠伸こそ返ってきたものの起きる気配はない。

「なぁ、エイル起きろよ」
「……」
「おーきーろー!いったい何が起こったんだ?」
「イブイッ!」
「いや、イーブイ。今は緊急事態だから遊ぶのはちょっと待って……」
「ブーイッ」
「……」

 エイルの姿で四つん這いになって下から見上げてくる、甘えた声にあっけなく負けた。ああ、可愛いなこんちくしょう。
 人間の姿でもポケモンの時と同様に気持ちいいのか分からないが、顎の下あたりをカリカリと掻いてやる。エイルの姿をしたイーブイは気持ち良さそうに目を細めごろんと転がり、胡座をかいた俺の膝に頭を預けた。

「気持ち良さそうにぐうぐう寝ちゃってよ。おまえのご主人は呑気だなぁ」
「ブーイッ」
「ま、そういうところも含めて好きなんだけどな」

 惚れた弱味と言えばいいのか。寧ろ嫌いなところなんてありゃしない。エイルだからこそどんなところも好き、なんだよな。どんなところも可愛く見えるし、なんでも

「わたしも、疑うことを知らないきみのそういうところ、好きだよ」

許してしまうというか……はい?
 確かに聞こえてきたのは、エイルの声だった。俺の膝でくつろいでいた存在は、今や笑いを堪えてプルプルと震えている。ソファーの上の存在に目をやると、これまたクスクスと笑ってソファーから飛び降りると、ブランケットの上に寝転んだ。
 ……と、いうことは。

「やっぱりエイルじゃねーか!騙したなー!」
「だって、日付が変わって今日はエイプリルフールだし、ちょっとからかってみようかなって思ったの。まさか素直に信じるなんて思わなくって」
「笑ってるんじゃねーぞ、このっ!」
「あははは!くすぐったい!くすぐったーい!」

 つまり、これは精神の入れ替わりでも何でもなく、単にエイルがイーブイの真似をして入れ替わった振りをしていただけ、と。
 やられた。全く、イタズラ好きの恋人を持つと心臓がいくつあっても足りやしない。制裁として擽りの刑に処するくらい可愛いものだろう。
 ひとしきり笑い終えたあとも、相変わらず俺の膝の上でごろごろしているエイルの髪をすく。こっちが、エイル自身が撫でられるのが好きな場所。
 ほら、嬉しそうに目を細めてまどろむ姿を見ると、やっぱり許してしまう。

「まあ、イーブイになりきったエイルも可愛かったからいいけどな。職業柄さすがというか、イーブイの真似上手かったし」
「この前、ポケモンと入れ替わった人間の役を演じたしね。それにしても、ふーん。オーバくんそういうのが好きなんだね?ふーん?」
「な、なんだよ」
「別に?」

 ……これは、あれだ。新しいイタズラを思い付いたときの顔だ。
 本当に何を考えているのか、エイルは上機嫌に鼻唄まで歌い始めたが、ここはあえてスルーさせてもらおう。一旦心臓を休めないと、色々ともちそうにない。

 しかし数日後、どこからか買ってきたイーブイ耳のカチューシャをつけて、ブイブイ鳴くエイルの姿に俺がノックアウトされるのは、また別の話。



エイプリルフールネタでした。時間軸はどこだろう。よりを戻したあとのどこかかな。(適当)
2020.3.29


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