5-1.迷いを捨てて


 コチ、コチ、コチ。時計の秒針の音しか聞こえない休憩室で、片耳で音楽を聴きながら、わたしは名刺とにらめっこしていた。それはまるで神様がくれたプレゼントのように、わたしにとっては崇高なものだ。だって、これはわたしの夢を叶えるための片道切符になるかもしれないものなのだから。
 ただ、ひとつだけ気にかかることがある。そこに書いてある文字を何度視線でなぞっても、書いてあることには変わらない。それはわたしにとって、大切ななにかを失うことに繋がるかもしれない。
 でも、それでもわたしは。
 その時、休憩室のドアをノックする音が聞こえた。ウォークマンをしまいながら顔をあげる。

「はーい」
「なんだ。まだ帰ってなかったのか」
「……はい。なんだかボーッとしたくて」
「今日は店の改装の打ち合わせがあるから、ここはもう閉めるぞ」
「改装? そういえば、マスター。お客さんが増えてきたし、売り上げもいいから店を広くしたいって言ってましたもんね」
「ああ。今は喫茶店メインだが、もう少しバーの方にも力を入れたいからな」
「ふふっ。何年か前まで密猟者だったなんて、信じられないくらい向いてますよ。今の仕事」
「おいおい。それは掘り返さない約束だろう?」
「失礼しましたー! あ、じゃあ打ち合わせ前に着替えますよね。わたし帰りますから」
「エイルの歌は評判がよくてなぁ」

 名刺を手帳に挟み込んで、慌てて休憩室を出ようとすると、背中にマスターの声が投げ掛けられ、足を止めた。

「え?」
「目当てで来る常連も多いんだ。店をリニューアルするとき、きちんとしたステージも作ろうと思っているんだ。歌ったり楽器を演奏したりできるような……な?」
「……」
「エイル達の歌を、新しくなった店で聴けなくなるのは名残惜しいが……いくら悩んでも、気持ちは決まっているんだろう?」

 マスターの言うとおりだ。いくら悩んでも、迷っても、遠回りしても、わたしの心はもうそこを向いている。もしこの選択が間違っていたとしても、わたしは後悔しない。しては、いけない。

「マスター。今まで働かせてもらって、歌う場所をくれて、本当にありがとうございました。ここにいたから、わたしは歌うことを続けられたし、大切な人とも出逢えた」
「おいおい。別れの挨拶としては少し早すぎるだろ? 残りの期間はきっちり働いてもらうからな」
「はい。もちろん」
「いつでも帰ってきていいぞ。次は歌姫として雇ってやる」
「ふふっ。ありがとうございます」

 失礼します、と言って休憩室を出た。夕暮れ色になりかけた空がわたしを迎えてくれた。
 オーバくんはわたしの瞳を、夕暮れの空色にも夜明けの空色にも見えると言ってくれた。きっとそれは、光の加減だったり、見る人の認識による違いだったりするものだけど、わたしは色んな輝きを放つ可能性を秘めている、と言ってもらえたようで嬉しかった。
 少し、緊張で手が震える。でも、しっかり話さないと。わたしの気持ちを、伝えないと。
 スマートフォンを耳に当てること十数秒、繋がった音から一呼吸置き、わたしは口を開いた。

「お父さん。わたし……エイルだよ。話があるんだ」

 もう、迷ったりしないよ。



2019.10.7


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