1-8.恋のはじまり


 目が覚めて視界に入ってきた天井の白さに唖然とした。

「……は?」

 なぜ俺はソファーで寝ている? 見覚えのない天井とルームライトはなんだ? あ、このタオルケットなんか良い香りがする……と、そんなことを考えている場合じゃなくて。
 昨晩の出来事を思い出そうと、必死に記憶を手繰り寄せようとした。しかし、どうも飲んでいた後の記憶が思い出せない。
 それでも、導き出されることがただ一つある。ここがどこで、誰の部屋か、だ。

「あ。起きてる」
「うわっはい!?」
「おはよう」
「お、おう! おはよう……じゃなくて! 普通に挨拶してる場合じゃなくて」

 エイルが部屋のドアからひょっこり顔を出したので、慌てて飛び起きた。頭がガンガン痛む気もするがそれどころではない。
 真っ白な壁。淡い色のカーテン。ソファーは二人掛けくらいの大きさで、その前にはローテーブルとテレビがある。キッチンもあるのでダイニングキッチンをか兼ねたリビングなのだろう。
 もしかしなくとも、ここは。

「ここ、エイルの部屋か?」
「うん」
「……ドウシテオレハココニイルノデショウカ?」
「ふふっ。変なの。何でカタコト?」
「そりゃ動揺してるからに決まってるだろ!? 昨日エイルに説教したくせに、結局上がり込んでるなんて、なにやってんだよ俺!」

 知り合ったばかりの男に、しかも夜に、部屋に上がれなんて簡単に言うなと、どの口が言えたことか。
 ソファーから降りてラグの上に正座した。なぜかエイルもそれに倣った。

「エイルさん」
「はい」
「海を見ながら飲んでいたあとの記憶が全くない俺に、何があったか説明してもらえないでしょうか」
「だから、ふふっ。敬語、似合わないね」

 クスクスと笑っているエイルは、フードつきパーカーにショートパンツという、いかにも部屋着ですという格好で、ここが彼女の部屋だということを思い知るには十分だった。メガネはかけていない。恐らく普段かけているのは伊達メガネなんだな。
 それに、フローラルというか、花のいい香りがする。それが恐らくシャンプーの香りだということに気付いたら、柄にもなく羞恥心が沸いてきた。
 こんな人を前にして、俺は何もせずにいられたのだろうか。理性を失わずにいられたのだろうか。

「そんなに身構えなくても大丈夫。何もなかったから」
「ほ、ほんとか?」
「オーバくん、結構酔っぱらっててね。わたしはきみの家を知らないし、送り届けられなかったから。かといって、放っておけないし……で、連れてきたの」
「お、おう」
「部屋に上がるなり『俺はソファーでいいから! お構い無く!』 って、秒で寝ちゃって」
「……」
「わたしも眠たかったからお化粧を落としてすぐに寝室で寝て、少し前に起きてシャワーを浴びたところ」
「…………」

 話を聞いて、安心したような、複雑なような。それはそれで失礼なことをした気がする。デンジが聞いたら、上げ膳据え膳なのに信じられない、とでもいう顔をしそうだ。

「オーバくんもシャワーを浴びてきたら? スッキリするよ?」
「いや、帰ってから浴びるからいい。気持ちだけありがたく受け取っておく」
「そう? じゃあ、軽く朝ごはんでも食べていってよ」
「いやいやいやいや。ほんと、そこまで世話になるには」
「いいから。どうせ簡単なものしか出せないけど。ね? はい。とりあえず、お水。これ飲んで、お顔くらいは洗ったら?」
「はい。そうさせていただきます」
「洗面所は部屋を出て右のドア。トイレは左のドアだから。タオルも好きに使ってね」

 もはや俺に拒否権はないので素直に従うことにした。
 とりあえず、水を飲んでトイレを済ませた後、顔を洗おうと洗面所へと入った。一人用サイズの洗濯機に、歯ブラシも一本だけ。顔を洗って、棚の上に畳まれ重なっていたフェイスタオルをポスッと顔に当てると、柔軟剤のいい香りに包まれた。

「本当に、女の子の独り暮らしって感じだな……」

 彼氏と同棲とか、もしくは結婚しているとか、そういう感じではなくてホッとしてる自分がいることに気付き、邪心を払うように首を振る。平常心だ、平常心。
 一度深呼吸をしてリビングのドアを開けたが、エプロン姿のエイルを見て膝から崩れ落ちそうになるのを堪えた。どうしてこうも、俺の心臓に突き刺さるようなことばかりしてくるのだろうか。

「オーバくん?」
「んあ!?」
「ふふっ。変なの。突っ立ってないで入ってきて座ったら?」
「お、おう」
「本当に簡単なのしか作ってないの。でも、飲んだあとならこのくらいがいいかなと思って」
「おー! これこれこれ! こういうの食いたかったんだ!」
「よかった」
「いただきます!」

 エイルが作ってくれたのは卵と梅を使った雑炊だった。レンゲでひと掬いすると、湯気がふわっと立ち上って出汁のいい香りが食欲を刺激する。口の中に入れてしまえば、自然と表情が緩んでしまうのが自分でも分かった。

「はぁ……梅がさっぱりしててうまい……卵もふわふわだ……疲れた胃が癒されるぜ……」
「オーバくんって、飲むわりにはお酒弱いんだね」
「つか、エイルはなんともないのか? 強くね?」
「わたしだって人並みにしか飲めないけど、わたしはきみが飲んだ半分も飲んでないからね。喉を痛めたくもないし」
「え? そうだったのか……それにしても美味いな、これ。料理上手なんだな」
「上手いってほどじゃないよ。独り暮らしをして困らない程度にしか作れないもん」

 他愛もない話をしていればあっという間に器は空になり、いよいよ帰る時間になった。
 着替えてくると言ったエイルは、着ていたフードつきパーカーはそのままに、下だけジーンズにはきかえて、伊達メガネを装着して寝室から出てきた。やっぱり、昨晩の姿からは想像が出来ない出で立ちだ。せっかく綺麗な顔をしているのに、なぜそれを隠すような地味な格好ばかりなのだろう。

「じゃ、わたしはポケモンセンターにポケモン達を迎えに行くけど、きみは帰ってからちゃんとシャワーを浴びなさいね?お酒臭いから」
「わかってるって! いや、でもほんとありがとな! 泊まらせてもらって飯も作ってもらって」
「お礼を言うのはこっちだよ。昨日は本当に楽しかったから、ありがとう。じゃあね」

 あれだけ色々と世話を焼いて帰りを引き留めておきながら、去り際はあっさりだ。歩き出した後ろ姿をどうやったら引き留められるか、どうやったら次に繋げることができるか。
 出てきた言葉は単純かつシンプルなものだった。

「なあ!」
「え?」
「連絡先、教えてくれよ!」

 やっぱり、突然過ぎただろうか。こういうとき、恋愛慣れしているデンジなら、もっとスマートに連絡先を聞き出せたのかもしれないが、俺にはそこまで多くの経験値はなかったので、ストレートに、でも理由をつけて下心を必死に隠す。

「色違いのフワンテやリザードン! 見せてくれる約束だっただろ? 喫茶店に行けば会えるかもしれないけど、シフトが休みの時もあるだろうしさ! だから」
「……ろん」
「ん?」
「……もちろん!」

 あ、これは、ダメだ。こんな、出会ってから一番の笑顔を見せられて頷かれたら、もう、認めるな、誤魔化せ、というほうが無理な話だった。
 エイルが立ち去った後、スマホに追加された連絡先を見てにやつく俺は、端から見たらただの不審者に見えても仕方がないかもしれない。自分でもそう思えるくらい、浮かれてしまっていることが分かる。

「あー。これ、マジなやつだな」

 エイルが、好きだ。きっと、喫茶店で姿を探すようになってから、この気持ちは始まっていたのだ。



2019.8.8


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