雨の日の夕方の鉛みたいな群青の空が、ゆっくりと黒に変わっていく様を私はビニール傘の下からじっと眺めていた。滴り落ちる雨水が制服を濡らす。秋も終わる十一月の夜はとても寒い。電灯の放つ白い光の直線が黒い水溜まりに差して、広がる波紋の数を数えていた。深く暗い夜の底にゆっくり沈んでいく感覚だった。私がこうして此処で彼の帰りを待っているのは純な感情だけではなくて、こんなに寒い雨の夜に待ち続けていたら、ちょっとでも同情を買えるのではないかという姑息な考えが混ざっている。女の涙にはいかに自分を可哀相にいじらしく見せるかという計算が少なからずあって、それでもやっぱり泣ける程器用じゃない私はこの雨に感謝していた。
寒い、なあ。指の感覚がないや。車のヘッドライトは今だ見えず、地面が騒いで揺れたと思ったのが私の身体であったと気付けないまま意識は緩やかにフェードアウトしていった。
目を覚まして見えたのは職員寮の見慣れた天井で、でも自分の部屋ではないと理解したのは布団の匂いが私のものではなかったからだ。
「ああ、目が覚めましたか」
「……忍成先生、?」
横に居たのは何故か忍成先生で、相変わらずほわほわとした笑顔を浮かべていた。握られたマグからは白い湯気が上っていて、ミルクの優しい匂いがする。
「校門の前で倒れていたので慌てて連れてきちゃいました。寒かったでしょう、具合は悪くありませんか?」
先生は頭を撫でながら言う。校門、そうだ、私、星月先生を待っていて。こうしちゃいられない、早く戻らなければ星月先生がお見合いから帰って来ているかもしれない。言わなきゃいけない事があるのに、
「先生、私、行かなきゃ」
「倒れたばかりなのに何処へ行くんですか?」
「校門に、星月先生に会わないと、私!」
布団から飛び出そうとすると、強い力で手を引かれて私は振り向いた。
私が慌てふためいているのに忍成先生はいつもと変わらず柔らかい笑みを浮かべたままで、でも今はそれが堪らなく怖かった。
「行ってどうするんですか?お見合いを断れとでも星月先生にお願いするんですか?」
「それは、」
「止めた方がいいですよ。見苦しいですし、何より貴方、星月先生にただの我が儘な子供としか思われていない。どう考えたって貴方が愛される見込みなんてないじゃあないですか」
柔らかいと思った笑顔が途端に貼付けたような仮面に見えて、声のトーンと吐き出された言葉の温度差に背筋が泡立つ。
それなのに頭を撫でる手つきは異常に優しくて、訳がわからなかった。
「でも、私は、それでも」
「俺は、寂しいものとか可哀相な子とか見ていられないんですよね。夜久さん、とても可哀相です」
皮肉でもなんでもなく、忍成先生の目は慈愛に満ちていてそれなのになんだか空っぽだった。
可哀相って何。私は確かに今は苦しいけれど、動かないと絶対に後悔する。だから星月先生に会いに行こうとしているのに、その一言は私の全てを否定するように聞こえた。
「可哀相って言わないで下さい」
「ふふ、強がらないで下さい。そんな夜久さん、やっぱりとても可哀相です」
「……っ、やめてって言ってるじゃないですか!」
声を張り上げた瞬間、どんと壁に無理矢理押し付けられて先生は相変わらず笑顔のまま、低い声で囁いた。
「長い時間雨の中で待って引けるのなんて同情くらいで、それが愛情になる訳なんかないんですよ。まだわかりませんか?」
「……っ」
先生の瞳は黒々としていて、夜の底みたいで、そこにずぶずぶと飲み込まれていく私が見える。私は、可哀相なんだろうか。見込みが無くても、それでも愛されたいと、追い掛けるのは愚かだろうか。
「私は、可哀相じゃ、ない」
「可哀相です。貴方も、坊ちゃんも、東月くんも七海くんも、みーんな寂しくて可哀相です。振り返らないものばかり届かないものばかり求めて足りないまま。大丈夫ですよ、俺がきちんと愛してあげます」
先生は私を抱き抱えると、まるで子供をあやすように頭を撫で始めた。私がぼたぼたと零す涙を見て先生は詩の一節をなぞる。
「そうして愛は、どのようにやって来たろうか」
愛なんてきっと、やって来たりなんかしないよ。愛情の形なんか見えないよ。先生、先生、私なんだかもう消えてしまいたいよ。