祖母が亡くなったのは12月の頭の事だった。



北へ向かう新幹線の座席に凭れながら細く長いため息を吐き出す。
亡くなったのが祖母ではなく、祖父や母だったり他の家族だったなら僕は適当な理由をつけて実家へは戻らなかったと思う。普段は連絡なんて寄越さない癖にこういう時ばかり家族なんだからと当たり前の顔をして僕を呼び寄せる両親が死ぬほど嫌いだ。低俗な物が嫌いで噂話に耽る隣人を見下して自分はそんな奴らとは違うって顔をするくせに、体面ばかり気にしてあそこの家はおかしいなんて言われるのが怖くてしょうがないのだ。田舎でどこか閉鎖的な考えのちっぽけなあの町で、ひたすら嘘を塗り固めて生きるあの人達を僕は軽蔑していて、でもそれは僕にだって言える事だった。それがどうしようもなく僕を苦しめる。あの人達からは逃げられても、この身体に流れる血液からは逃げられはしないのだ。いつまで僕はこんな思いをしなければならないんだろう。



車内にアナウンスが流れて、トレンチコートを着込みホームへ降り立つ。迎えなんて当然ない。あっという間にたどり着いた故郷には薄く塗したような雪景色で、呼吸は視界を白く濁した。
駅から実家までは歩いて15分程だ。どこを見ても田畑か山で、幾つか民家が纏めて立っており隣の集落までは結構距離がある。
僕の家はそんな法則を無視して町の端にぽつりと建っている。昭和の始め頃に建てられたのだという洋館のめいた家はこの田舎町では随分と浮いていて、なんだか可笑しい。小さく笑えば痩せた野良犬が死んだように濁った目で僕を見ていた。
下品にならない程度に装飾された扉の横、インターホンを押す。実家なのにインターホンを押すのだと会長に話したら彼はどんな顔をするだろうか。しばらくすると入って、と素っ気ない姉の声がした。扉を開け、スリッパに履き変え居間へと向かえば家族はそこに集まっていた。ただいまなんて言わないし、お帰りだなんて言って貰いたくもない。寡黙な兄が目線で居間と隣接する祖母の部屋へと合図する。兄に続いて祖母の部屋へ入れば、棺の中白装束を着た祖母が横たわっていた。そっと畳の上に正座して棺の中の祖母の手に触れてみる。当然、固く冷たかった。涙は流れない。悲しいとかそんな感情を飛ばして、祖母の遺体を眺めていた。祖母の顔は皺だらけでも静かに美しく、死とはこんなに穏やかなものなのだろうかと疑問に思う。生はどう足掻いても苦しくて痛くて、それが終わるなら僕はこんな顔で死ねるのだろうか。わからない。死体は何も語らない。そのまましばらく動かない僕から両親はすぐに目線を外し、姉は大袈裟なため息をついた。僕はその日、祖母の部屋で眠った。



翌日、僕は駅前の花屋へと向かった。物欲のない人間だから、幸い貯金だけはある。芍薬を両腕に抱えられるだけ買って家に戻り、祖母の棺いっぱいにそれを敷き詰めた。それを両親は頭の可笑しいものを見るような目で、姉は死んだ人間にそんな事してどうするのと笑った。兄だけが何も言わずに僕を黙って見つめていた。死んでしまった祖母に僕が出来る事と言えば、火葬まで祖母の好きだった花を枯らさずに敷き詰めるだけだ。この家の人間は僕がどれだけ祖母に救われていたのかを知らない。



兄弟揃ってのピアノの練習が僕は嫌いだった。一人なら楽しく滑る指先も、両親にずっと見つめられていると思うと上手く動かなくなる。上手に弾かなくては、そう思う程縺れる指先が憎くて憎くて、そうして両親の目が兄や姉へ移っていくのが惨めでしょうがなかった。音楽しかないこの家で愛される為には上手にピアノを弾かなければならない。その頃は僕だって子供で両親に愛されたかった、自分だけを見ていて欲しかった。でも視線を留めておくだけの能力が僕にはないのだ。泣きながら、鍵盤を叩く僕は両親の目にどう映っただろうか。今になってはどうでもいい事だけれども。
兄弟の中で一番演奏が上手いのは兄だった。寡黙な兄はどこにそんな感情を納めているのか、演奏は時に力強く雄弁であり、時に繊細で儚かった。両親はそんな兄を大層可愛がったが兄は特に気に留める事もなく音を奏でる。姉はいつもそれに嫉妬していた。外見も内面も母に似た姉の高音は、ヒステリックな金切り声だといつか兄が言っていた。優等生でいたい姉は演奏も優等生で楽譜を忠実になぞる。独特の高音がいつも私を見て私を愛してと声高に叫んでいるような気がした。
そんな兄弟揃っての練習が終わると両親はいつも二人を連れて外食に出かけていた。祖母はその光景をいつも黙って見ていた。どうして助けてくれないのかと思った事はない。何と無く、そう言えば祖母を巻き込んでしまう事を分かっていたのかもしれない。
祖母は家族が出掛けるの見送ると僕を呼ぶ。

「颯斗、こっちへおいで」

そうして僕の右手に飴玉を握らせる。皺まみれの手で僕の頭を撫でていつもこう言うのだ、

「よく頑張ってるねぇ、颯斗がたくさん練習しているのを私は知っているよ」

その言葉が、手が、僕をどれだけ救っただろうか。僕はそのまま祖母の膝に顔を埋めてわんわん泣いた。



祖母だけが僕の味方で救いだった。家族として祖母だけは愛していた。そんな祖母ももういないけれども。



祖母の名前は満という。満と書いて、みちる。その名前の字も響きも好きだったけれども一度も口にした事はない。おばあ様、と呼ぶように躾られていた。
遺品整理の最中見付けたその名前を小さく呼ぶ。幸せな響きだ、幸せがどんなものかは知らないけれどもそれは何かで満ちていることだろうと思う。

「要らないものは全部捨てなさい、邪魔なんだから」

母はテキパキと価値の有るもの無いものを分けて外へと出していく。
それを横目に僕は物置の隅に埃を被った何かを見付けた。上にかけてある布を取れば、それは立派な姿見だった。僕の後ろに立っていた父が呟くように言う。

「なんだ、母さんの嫁入り道具か」

興味はそこで失せてしまったらしい。父はまた別の作業に入っていく。僕はその姿見をぼんやり見つめていた。

「忙しいんだから、さっさと手を動かしなさい」
「……これ、僕が貰ってもいいでしょうか」
「勝手にしなさい」

そんなものが一体何になるんだか。母はぶつぶつと文句を言いながら荷物を抱えて物置から出ていった。



その日の夕方、僕は自分の部屋に持ち込んだ姿見を眺めていた。祖母は何を思いながらこんな張りぼての見栄っぱりな一族に嫁いだんだろうか。鏡面はつるりと冷たく、吐息が白く曇る。夕暮れ時、橙色の光が鏡に映る。鏡の中ぼんやりとする自分を見た、と思ったらそれは僕ではなかった。
長い薄紅の髪を結い上げしゃんと背筋を伸ばした女性が僕を見ている。思わず鏡を確かめるように触ると、そのまま鏡面に引きずり込まれるように飲まれてしまう。
背中を強打し思わずうめき声を漏らせば、僕を不思議な顔で見下ろす女性と目が合った。瞬間、僕はこの人と会ったのが初めてではないことを確信する。僕はこの人が誰か知っている。記憶の中の姿とは随分違うけれど、この人は。

「……おばあ、さま」
「残念ながら私にはまだ孫なんていないわ、鏡から飛び出してきた貴方はどなたかしら?」

祖母は驚いている素振りもなくなんだか楽しそうだ。

「颯斗です、青空颯斗」
「私は満です。奇遇にも明後日、私は青空様のお家に嫁ぐんです」

わからない事ばかり、でも確かなのは目の前のひとが僕の祖母であること。

『颯斗が頑張っているのを私は知っているよ』

不覚にも、泣きそうだ。


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