あまりいい日ではなかった。そう思う。
顔の皮膚がかさかさに乾ききっているような気がした。扉を開ける手は血色が悪く、とかげみたいだと、素直に、悲しく思った。

「おかえり」

扉を閉めると、同居人の紫苑は本を閉じた。分厚い、深緑の色をした年季物だ。彼の膝には小さな生き物が尾を振っている。
おれは乱暴にブーツを鳴らしてベッドに飛び込んだ。紫苑が小さく叫ぶ。ぎゅ、ぎゅ、とバネが鈍く軋んだ。壊れたかもしれない。
暗やみのなか目を閉じて、大きくながい息をつく。腹のなかで渦巻くもやつきが、鼻からわずかに漏れていく。そのまま呼吸を繰り返す。無理やり酸素を吸い込み身体中に行き渡らせ、ほんの少し浅黒いもやつきを絡め取って鼻から出す。長いこと日干しを忘れていたシーツから。人間と埃くさいシーツに顔を押しつけて。
時間をかけてたっぷり息を吸い込んで、おれは暗やみに顔を背けて目を開ける。うつろとした眼差しでちっとも晴れないもやつきを吐き出して、紫苑を見る。紫苑はベッドの傍らで膝をつき、まじまじとおれの顔を観察していた。

「ひどい顔してる」

紫苑が口を開く。

「ご飯食べてないだろう、干し芋ならあるから、少しでも口にいれないと」
「紫苑」
「空腹だとね、余計なことばかり考えてとんでもなく身体に負担をかけるんだ。最近知った」

声を出すと、自身の潤いのない音色に驚いた。舞台の花形が聞いて呆れる。喉元に手をやると、その手の冷たさに、ぞっとした。

「起きれるかい」
「当たり前」
「ああ、もう、声もひどいじゃないか」
「うるさい」

傷ついた。紫苑の何気ない一言に、いま、傷ついた。
うるさい、とは、誰に言ったんだろう。
今日は、あまりいい日ではなかった。
しかし、生きていればそんな日もある。こんなおれでも人間なのだ、浮き沈みくらい人並みにある。人に刃物を突きつけるときも、全身を使って人を魅了するときも、腹を満たすために食事をするときも、身体を清潔に保つために水をいっぱい浴びるときも、身体を休めるために眠りにつくときも、そのときに間近に見るひとりの男の無防備な顔を見る気持ちも、みんなみんな、生きているから感情が目まぐるしく回転しているのだ。嬉しい憤ろしい楽しい悲しいと、おれの体内はいつだって人間だ。
いま目の前にいるこいつだって人間で、おれも人間だから同じ人間。なにも違わない、なにも疑うこともない、振り回されることもない。
そうだ、同じだ。身体をくっつけ合って眠ればお互いあたたかい気持ちで穏やかに眠れる。こんな世界に明日って保証はどこにもない。だけどこいつと「おやすみなさい」とあいさつを交して意識を手離し、そうしてそのまますべてを手離しても、別にいいのではないか、とたまに考える。決して口に出していい問題ではないので、おそらく死ぬまで腹にしまっておくのだが。
毎日ひとつずつおやすみなさいを重ねていって、それがいつかかけがえのない何かになるとおれは確信している。築き上げたものは目に見えないが、だからこそ誰にも崩されない鉄壁の何か。
おれは半身を起こしてベッドに腰かけた。足をだらりと床に出す。
紫苑を見下すと、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「干し芋持ってくる」

鼻で呼吸を繰り返す。当然だけど、シーツに顔を押しつけてするものとは比べようもなくすんなりと気持ちよく酸素を吸える。生きているのだ。生きている。そうやって実感した空気はとんでもなくおいしいのだと、最近知った。紫苑の言葉を使う。少しおもしろくなった。笑う。目を閉じる必要もないので、ただ素直に笑う。

「いい顔してる」

声がした。
顔をあげると、紫苑が二切れの干し芋を手に笑っていた。

「さすが、いろんな顔を持ってるんだね」
「このくらいなら、誰だって持ってるさ」
「でもきみのは、誰よりも美しい」
「よくもまあ、恥ずかしいことをポンポンと」
「本心だもの」
「…だったら、すごく嬉しい」

干し芋を噛みきって、奥歯を使いやさしい味を堪能する。何度も噛みしめて柔らかくなった干し芋は、勝手に喉から食道へと滑っていく。気持ちのいい食事だ。生きていると実感した食事は、なおさら。
生きていれば浮き沈みくらい誰にだってある。
今日は、あまりいい日ではなかった。
でも明日は、明日はきっといい日にしてみせる。
しかしこの世界に明日なんて存在しない。
だからせめて、おやすみなさいとあたたかな気持ちで眠るのだ。
その繰り返し。繰り返しでおれ達は生きている。丁寧に身体を使い、時間を使い、そうして命は少しずつ減ってゆき、代わりにかけがえのない何かが積み重なってゆく。おやすみなさいの繰り返し。浮き沈みの繰り返し。そして毎日の繰り返し。

「おやすみなさい」

と紫苑が眠り、

「おやすみなさい」

とおれも眠る。

「おやすみなさい」

人間は夜になると眠りにつく。……当たり前。



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