ぼくは走った。
がんがん、と警鐘する頭を引きずりながら、ひたすら走った。息がつまった。なんとか生唾を飲み下し、はあ、とたっぷりした二酸化炭素を吐き出す。人波に揉まれるようにして、逃げ出したのだ。ぼくに体当たりされた人たちの怒号が背中に突き刺さる。でもぼくは走った。後先のことを何も考えずに駆けるものだから、胸に抱えていた四つの果物――赤く熟れ、滴のようなかたちをしていた――を人混みの中に落としてしまっていたようだった。ごちゃごちゃとした市場を抜け、見たこともない荒れ地に自分がいることに気づいた時にはすでにその果物は手中から消えていた。
ぼくは呼吸を乱したまま、その場にへたりこむ。疲れた。本当に疲れた。辺りを見渡すと、何も無い。土に生えた小さな雑草と、原型を留めていない鉄の廃材。それだけだ。何も無い。誰もいない。
日は沈み、空に浮かぶ雲は紫色をしていた。太陽であたためられていた空気はとっくに冷めている。鼻先と耳朶は冷たく尖り、うっすらとかいた汗は嘘みたいに冷えきっている。ぼくはぶるりと震えた。
今日、ぼくは走った。ついさっきまで、必死に逃げきろうとした。
いろんな人たちに迷惑をかけた。せっかくの果物をおじゃんにしてしまった。
そして、ネズミ。
ぼくは、深く深く、息をついた。激しい戸惑いと、興奮と、よくわからない高揚感で、頭が破裂してしまいそうだ。感情が高ぶりすぎて、涙が出てきそうだった。ネズミ。ネズミ、ぼくに何を言おうとしたんだ。
「紫苑」
背後から、声がした。精錬された、透き通った美しい声。
イヴ、そう呼ばれ、たくさんの人たちを心から虜にする彼を、ぼくは一度、触れてみたい。目にして、耳にして、死ぬまで背負い続ける貧困の苦しみを一時でも解放してくれる彼の魅力を、ぼくは知りたい。
「ネズミ」
立ち上がる気力すら無いので、首だけネズミに傾ける。ネズミの呼吸もまた、乱れていた。
一度、ネズミはぼくのことを、いや正確には赤い跡が残った身体を「艶っぽい」と評したが、ずっとずっと彼のほうが艶っぽい。
ネズミはぼくの前に腰をおろした。とてもくたびれた様子だった。その両手には、あの果物が一つずつ握られている。
弾んだ息がぼくにかかる。胸がざわめく。なま暖かい。
「なんのつもりだ」
ネズミは言った。
それは、ぼくの台詞だった。
「なにが」
「これ買った途端、急に逃げ出しやがって。しかも親切なことに、丁寧に一つずつ落としていった」
「拾ってくれたのか、ありがとう」
「どういたしまして。半分は間に合わなくて、踏み潰されたけど」
「……ごめん」
ぼくが頭を下げると、ネズミは鼻を鳴らした。
「なんで逃げた」
「それは…」
「果物を一人占めしたくなったか?」
ネズミは笑った。
「ちがう」
「じゃあなんだ、ママの後ろ姿でも見えたか?」
「ちがう!」
否定した声が思った以上に大きく出てしまった。ぼくは唖然とした。ネズミも目を見開いた。
ああもう、だからだめなんだ。ぼくは唇を噛みしめた。ぼくは、ネズミを前にすると自身のコントロールが利かなくなる。すぐカッとなり、頭が暴走して歯止めが利かなくなる。動物のようにネズミに体当たりし、そしてそれは、大抵失敗に終わる。
ネズミは、ぼくにイライラしてしまうという。
ぼくも、自分にイライラしてしまう。
ネズミと出会い、真っ正面からぶつかり合うことを知り、傷つき、生皮がめくれ、新しい一面を目にして耳にする。驚きを隠せないこともある。悩みに悩んだこともある。それでもぼくはネズミと、……ネズミと。
「きみが、変な雰囲気を出したから」
「変な雰囲気?」
ネズミの目が瞬いた。
「さっき、きみは、ぼくに何を言おうとした」
「え?」
「ぼくがお店の人から果物を受け取ったとき、きみは変な雰囲気を出してた。何か言いたそうな雰囲気を出してた」
「おい、紫苑」
「なんとなくだけど、ぼくはそのことを聞いてはいけない気がした。たぶん、間違っていない。そしてそのことに、ぼくはどういうわけかとても揺さぶられて、気がつけば走っていた。ネズミから逃げ出していた。二人で選んだ果物を落としていってしまうくらい、必死だった。だから、きみの質問に正直に答えると、よく分からない」
ネズミは、ぼくの話に耳を傾けてから、果物を一つ、差し出した。
「食べろ」
「いま?」
「今だ」
ぼくは果物を受け取った。果物の表皮には、砂ぼこりがついていた。
顔を上げると、ネズミは丁寧にその皮をむき、柔らかそうな果肉に歯を立てた。美しい食事だった。ぼくもそれにならい、果物にかぶりつく。真っ赤な皮を剥いだ果物の果肉はどろりとした黄色だった。
「うまい」
「当たり前。おれが選んだ果物だ」
「ぼくも一緒に選んだ」
まっすぐ目を向けて言うと、ネズミは小さく笑った。
そうして呟くように言った。
「あんたの予感は、当たってるよ」
「…え?」
「おれは確かに、言いたいことがあった」
甘ったるい果肉が喉を滑っていった。
「なんだと思う?」
「……分からないよ」
不思議と、涙がこぼれた。
左目からぽろりとほほを伝い、ぼくはあわてて拭おうとした。
ネズミが、その手を掴んでやんわりと制す。もう片方の手を伸ばして、ぼくの涙をそっと掬った。あまりに優しすぎた。
「そうだよな、おれも分からない」
ネズミは掴んだ手で、ぼくの指先を慈しむように絡めていく。ぼくは、ネズミの感触にひそやかに気持ちの良さを覚えて、顔が熱くなった。
「…なんだよ、分からないって」
「聞いちゃいけないって思ったんだろ。好都合じゃないか」
「ねえ、食べかけ落としてるよ」
「別に、いい」
「もったいないよ。ばか」
「その果物をポロポロ落としていったのは、さて、誰だったか」
「ネズミ!」
「本当は」
がらりと口調が変わった。心臓が凍てつく。
ネズミから、重なった二つの手のひらに目を逸らす。ネズミの迫る双眸に向き合えなかったのだ。いつもなら、いつもなら虚勢を張って対立するのに。
呼吸が震えた。
「ネズミ」
「逃げるなよ」
「…うん」
「おれはな、紫苑。本当はあんたに興味を持たれるような人間じゃないんだ。あんたはおれに振り回されなくてもいいんだ。バカみたいに逃げ出した理由なんて、わざわざ言葉にしなくていいんだ。安い挑発に乗るな。とことんおれを利用して生きていけばいいんだ。なんで泣くんだよ。泣く理由がどこにある」
「………」
ネズミの手のひらに、力がこもる。黙ってぼくも、それにこたえた。
繋がった手のひらだけは、きちんとあたたかった。決して一人では確かめ合えない、二人だから分かるあたたかみだ。たぶん、それが答えなのだ。
ぼくは目を閉じた。耳を澄ませる。
目の前には、ネズミがいる。ネズミ。
「―――おれは、」
ネズミ。