メールの返信が遅いと子犬のようにキャンキャンまくし立てられて怒られた。メールが遅い、待ち合わせも遅い、なにもかもが遅い、みんなみんな遅い。彼女はずいぶんせっかちな人だった。鬱陶しい、といつだって髪と爪は短く揃えてあったし、仕事はきっちりとその日に済ませて僕に会いにきてくれた。
キャンキャン怒られたあとは、嘘みたいにあっさりとふられてしまった。彼女は高々とハイヒールを鳴らして僕から去っていった。駅の改札口前だったから、すれ違う人たちの視線がどうにも気になった。僕はたまらなくなり、改札口を通っていつもの通勤電車に乗り込んだ。というよりつっこんだ。ため息をつきたいけれど、夕方のピークに鉢合わせてしまったため、そんな余裕はなかった。足元にごつごつと当たる誰かの鞄が非常に痛い。
人とドアに挟まれながら、僕は携帯電話を取り出した。片手で開き、細目でのぞきこむ。メールの送信ボックスと受信ボックスを見比べると、確かに僕は返信が遅かった。一ヶ月後に返信したメールも見つかった。
彼女に悪いことをした。
僕は身体の向きを変えて、ドアに凭れこんだ。携帯電話をポケットに入れる。
顔をあげると、目の前にまるで脂身の塊のようなオッサンがいて、僕はたまらずうつむいた。

「ふられたってメール来たから、今日はカニ缶を開けてやったぞ」

兄さんはにやにやと笑いながら夕飯を並べていった。とても面白いことを発見した人間は、おそらくみんなこのような顔をする。
すっかりくたびれていた僕は席についた途端にため息をついた。何百回でもため息を吐き出したい気分だった。そのたびに兄さんがつやつやした顔で見るだろうから控えたけれど。
兄さんの夕飯はカニ缶の力も加わったせいか妙に美味しくて、干からびていた僕の目がほんのすこしだけ開いていった。
美味しいよ、と素直に口にすると、兄さんはうまいだろううまいだろうと得意な顔をして鼻をすすった。いつまでも子供みたいな人である。

「片付けは僕がするから」
「いいよ、お前ふられて傷心中だもんな。気をつかってやる」

それははたして本当に気をつかっているのだろうか。

「兄さんみたいに物事をはっきりと言う人だったよ」
「俺と一緒にすんなよ」

不満そうに兄さんは言った。

「お前と付き合えて羨ましいって思うやつは、いっぱいいるんだからな。それを手離すやつはただのバカだ」

そうかな、と僕は口のなかでもごもごした。

「それと、お前もバカだ」

今度は口に出した。

「バカじゃない」
「バカだよ、雪男は」
「…バカじゃない」
「知ってるよ」

兄さんはカニ缶で作ったお鍋から、白菜だけを箸でつまみ、僕の受け皿に落とした。透明でつやつやとした白菜に、僕は目を見開いた。

「お前には優先順位があるんだよな」
「優先順位」

そう、と兄さんは酷薄そうに笑った。

「いちばんが仕事、にばんが俺、それでさんばんは、お前を好きになってくれた人」

お鍋から立ちのぼる湯気からも、カニ缶のいい匂いがした。一体いくつ入れたのだろう。のぞきこむと、カニの細い足がいくつも浮いているのが見えた。
僕はため息をついた。にやにやとカニ缶を開ける兄さんをありありと思い浮かべられることが、非常に、非常に面倒くさかった。
そうかな、とつぶやき、僕は透明の白菜を口に運んだ。

「…本当に美味しいね」
「うまいだろううまいだろう」

カニ缶を開けてよかったと、兄さんはまた得意そうに笑った。


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