※紫苑は西ブロックの住人でネズミと面識がないというよく分からないパロ




路地裏だった。誰もいない。紫苑は横になり、膝を抱えて眠りにつこうとしていた。冷たい雨の降る夜だった。ほほを弾く滴はぴしょんぴしょん、とへんてこな音をたてていた。冷たかった。本当に冷たかった。服も陰鬱な雨に浸かっていた。紫苑の服は着古した麻のシャツだった。雨に濡れ、雲が切れる。肌と共に乾き、また雨に濡れ、そのまま躓き、地面に擦り付けるように転んでしまえば泥をかぶり、それをまた雨でだらしなく流して乾いた空気にさらしていく、紫苑のシャツは黄ばんでいた。しかし、どうせ、と紫苑は思っていた。夜になれば、薄い闇に溶け込んで自身の姿など見えやしない。いま、こうして汚い地面に顔を押しつけて見る景色は犬の目線より低い。堕落している。でも、ささやかな気持ちの良さがあることを認めよう。自分は動物みたいに夜目が利く。だからこんないい加減にまぶたを開けるだけで人のヒールの綺麗な赤色もよく見える。雨に濡れる土のきらめきもよく見える。それでいいんじゃないかな。紫苑は目を閉じた。雨の匂いを嗅ぐ。ぐちゅぐちゅにただれているようで透き通ったこの匂いを紫苑は気に入っていた。自分が蛙になった錯覚を覚えた。錯覚だ。目線はほぼ同じなのに図体だけはやたら大きいのだ。少し不便だよな。紫苑は自嘲する。死にたいとは思わないけど、やっぱり窮屈だ。冷たい雨が紫苑を叩く。「いっそのこと蛙になりたい」。無意識に呟いていた。呟いて驚いた。自分はそんなことを思っていたのか。あんな緑色をした気味悪い両生類になりたいというのか。ただただ驚いた。あまりの驚きに目を見開いていた。その時、眼前に入ってきた真黒のブーツなど、気にも留めていなかった。だからその願望に答えが返ってくるなど、紫苑は全く予想していなかった。「おれも蛙になりたい」。雨といっしょくたになって耳に流れこんできたのはそんな科白だった。紫苑は初めて目先にある人のブーツを認めた。そうして何度もまばたきを繰り返した。その際に、冷たい滴が睫毛を弾いて眼球を濡らした。ちょっぴり泣きたいと思った。何も言えずに死んだ魚のように寝転がったままでいると、黒々と濡れた美しいブーツはどこかへ行ってしまった。いつも通りの夜に戻ったのだ、あっさりと。ほう、と紫苑は息をついた。信じられなかった。話しかけられるなんて何年ぶりだったか。人間と見られるなんて何年ぶりだったか。全く信じられない。すごい。紫苑は笑った。動物はそういった表情を作れないことを、紫苑は知っている。だからいま、笑ってみせたのだ。誰もいない冷たい雨の中で。笑った自分ですら見ることは叶わない無駄なものだと知りながら。にやにやと紫苑は笑っていた。蛙から見ても気味悪い笑顔だったに違いない。すると、突然目の前に、果物を差し出された。見るからにみずみずしいオレンジだった。真顔になった紫苑は眼球をごろりと転がした。その先にはあの真黒いブーツが雨に濡れていた。紫苑は何も考えずにその果物を見つめた。そうして首を伸ばして、そっと歯を立てた。酸っぱい香りが鼻を抜けた。しかめっ面になる。オレンジの分厚い皮は苦いだけだった。口に含んだあとだらりと吐き出すと、雨の匂いに柑橘類の匂いが混じり、紫苑の頭を麻痺させた。「あんた、大事だな」。声がして、初めて紫苑は顔を上げた。オレンジと真黒いブーツの持ち主は、黒髪の綺麗な男だった。「なんて言ったの」。オレンジの苦味を残したまま、紫苑は男に言う。しかし、「分からなくていい」と優しく丸められて、それ以上は何も言えなくなった。ふいに黒髪の男は紫苑のほほを撫でた。これまた優しい手つきだった。紫苑は気持ちよさそうに目を閉じた。何でもいいと思った。犬でも蛙でも何でもいい。黒髪の男は紫苑と同じように雨に濡れていた。みすぼらしく黄ばんではいないけど、全身は濡れそぼって冷えきっている。それでいいと思ったのだ。紫苑は黒髪の男とその場で身体を重ねた。雨に濡れていても男からはいい匂いがした。指先の美しさに目を奪われた。悲しいことに、そこで紫苑は男と雲泥の差を感ぜられた。紫苑は雨と土に溺れそうになりながら必死になって男に手を伸ばした。黒髪の男はその手を取り、優しく優しく握った。その繰り返しだった。「まだオレンジを持っていますか」。汚い身体をさらに汚くして、紫苑は尋ねた。黒髪の男は土のついた服を叩いていた。何も答えてくれなかった。まだ少し汚い服を羽織った男は紫苑の手を取り、包みこむようにやらしく握った。紫苑は目をきらめかせた。「まだオレンジを持っていますか」。再び口にすると、黒髪の男はにやりと笑い、素早く紫苑の唇をさらっていった。「蛙みたいだった」。人間になった紫苑の視界から、黒々としたブーツが消えた。ぴしょん、ぴしょんと滴が跳ねる。雨は上がっていた。


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テーマ「人外ファンタジー」
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