部屋に電気はついていなかった。まだ夜の七時過ぎだった。
部屋の電気をつけると、ベッドに寝ころがる兄さんがいた。具合でも悪くしたのかと思いながら、僕は制服の長ったらしいコートをハンガーにかけた。スラックスを脱ぎ、いつもの普段着に着替えていく。
よく見ると兄さんの髪の毛はまだ湿っていた。兄さん、と呼びかけると、目が開いたと思ったらねめつけられて、顔を枕にうずめてしまった。

「疲れてるの?」

僕だって当たり前に疲れているけど、目の前にいる兄さんを気遣わなくてはと頭をなでてやった。

「兄さん」
「いい」
「なにが」
「触んな」

怒気のこもった声だった。そしてそれは、単なるやつあたりだった。
僕はその場に腰をおろして兄さんを眺めるように見た。
十月になるとずいぶん虫が大人しくなったように思う。いま聴こえてくる虫の声は分かるだけで二匹しかいない。
空気も冷たくなった。時計の指針が動くおとは変わらないのに、溶けていく周りの空気は足先から人間をみるみる冷やしていく。毛布から見える兄さんの足の指は紫色に変色していた。
兄さんはだいぶ疲労がたまっているようだった。見た目からして考えると。そっと頭をこっちに向かせてみると、肌荒れがひどくて驚いた。干からびた水田みたいな額と紺の色をしたふたつのほほ。

「構わなくていいから」

顔をしかめて兄さんは言った。

「もう一度お風呂に入ったほうがいいよ。ゆっくり」
「なんで」
「本を持ち込んでさ、きちんと身体を洗って歯を磨いて、そのほうがいい」

兄さんはつまらなそうにまばたきをしてまた枕に向き直った。僕は口元だけ笑って兄さんの頭をなでた。

「僕は兄さんの後に入るからさ」

誰にも話したことはないけれど、本と人間は似ているようで真逆だ。本は汚くなるたびに嫌われて、人間は自分を嫌うたびに汚れてしまう。
嫌うというのは例えば、苦手な人間の陰口を囁いたり、うぬぼれた自分を吐露してしまったり、忘れられない失態を振り返ったり、つまりそういうことに触れてしまうとき自分を嫌い、そうしてその泥くさい気持ちは顔の表面にまであらわれるということだ。
兄さんはいま、嫌われてしまった本みたいなものだ。日に焼けて、しみがついて、手垢で黄ばみ、表紙が破けてしまった一冊の本だ。

「兄さん」

それから僕は、そんな兄さんを可哀想に思って介護する、つまらないエゴを持った変態だ。
それをエゴだと知りながら行為そのものを止めようとしないただの変態。
もう一度兄さんを振り向かせて、僕はおそるおそる唇を合わせた。
なんでも許されるわけではないと知りながら、それでも、そう、変態だから。

「お風呂、あったまるよ」

兄さんが風呂から上がってきた。兄さんのお気に入りのコミックは、湿気にたわんで醜い嫌われものにかわってくれた。
いたいのいたいのとんでいけのおまじない。


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