「中華丼」の続き




 成人して俺たちは住居を離れて暮らしたが、俺はなんの悪びれもなく雪男の部屋に住み着いた。もとは一緒に暮らしていたし、仕事に追われて家にいる時間も少なかったものだから、雪男は煙たがらずに俺に合鍵を渡してベッドを半分譲ってくれた。雪男のベッドは男二人が横になってもたいして窮屈しなかった。
 俺は自分の部屋を半年もしないで飽きてしまった。一人で住むには十分広い、築二十年のコンクリートでできたアパートだ。雪男にすすめられた物件だったので、俺は疑いなくそこに決めたのだった。
 人気の無いアパートだったから、昼でも夜でも本当に静かで虫の鳴き声ばかりが耳についた。壁がコンクリートで通気性に悪く、まめに換気しないとすぐにカビが生えたりもした。風呂場のタイルもぬめりがなかなか取れなくて、一度足を滑らせて頭を打った。後頭部にたんこぶをこしらえて、雪男に苦笑いされてしまった。
 言い方はおかしいかもしれないけど、台所だけがその部屋唯一の取り柄だったと思う。流しの水道の流れはいいし、換気扇が大きな音をたてて煙を吸い込むのは爽快だった。なにより業務用の冷蔵庫にたっぷりと食物をつめこむのが楽しくてしょうがなかった。一人じゃ食べきれないくせに業務用の冷蔵庫。
 でももう、機会があればいつだって部屋をあけ渡すつもりだ。いくら綺麗に磨いても、そこで身体を洗っても、横になって眠りについても、どうしてもその部屋を好きになれなかった。雪男の部屋で息をしながら、早くあの必要のない大きなおもちゃ箱を片付けたい、そんな気持ちしか残っていない。愛せなかった。半年間、雪男のために我慢したけど、どうしても愛せなかった。
 ただ今は、やたらでかい家具や俺の生活用品を持ち運ぶ機会とやる気が無いだけだ。
 雪男の部屋は俺をぐずぐずに溶かしてしまうように気持ちがよくて、面倒なことを後回しにしてしまう。正直な話、もう二年も自分の部屋に戻っていない。洗濯してない衣類とか、冷蔵庫の中身とか、考えるだけで頭が痛い。
 雪男は濡れた髪で寝るのを嫌うくせにドライヤーの熱風を受けつけない、変なところで潔癖な人間だった。そしてその習慣を俺に押しつける人間でもあった。
 俺は二人分の夕飯の後片付けを済ませて、そそくさと湯船につかった。雪男には先に風呂に入れてやったので、いまは冷房の効いたリビングでテレビを見て涼んでいる(雪男は風呂あがりにテレビを見るのが好きだった)。
 雪男が好む番組を、俺はまだいまいちよく理解できていない。雪男はチャンネルを「1」から順番に回し、そのとき目に止まった番組を最後までじっくりと見つめるのだ。天才さまのすることはよく分からない、と隣で退屈にしている俺は、たびたび毒づいた。
 天才さまのすることはよく分からない、俺はお前みたいに欠点のある優れた人間じゃないから。
 ほかほかに蒸気を発した身体でリビングに入ると、人工的な冷気が気持ちよくて俺は生き返る心地がした。俺は嬉しくなってソファでテレビを見つめる雪男の隣に座り、それから力任せにしがみついた。雪男の髪はもうすっかり乾いていた。
 雪男は露骨に嫌そうな顔をして、暑い、と俺の顔を押しやった。

「なんて番組?」

 俺はソファの背中にもたれかかり、目の前にあるサイドテーブルにかかとをのせた。雪男はそれをはたいて床に落とす。

「ヨーロッパの地方に住む人の話」
「ほんとだ、羊の毛刈ってる」
「うん、羊の毛刈ってる」
「雪男、そういうの上手そうだよな」
「えー」

 適当な相づちだ、と俺は呆れてしまった。この番組はいつ終わるだろうと。
 雪男が住むマンションのリビングは、もともと一人用だから広くはない。でも革張りのソファやらテレビやらガラスでできたテーブルやら、素敵な家具を置けるスペースは十分にあった。天井近くの壁には立派なエアコンもついている。
 大人になった雪男は、高校のときから少しだけ背が伸びて、五キロ太った。でも余分なぜい肉はなく、筋肉が増えてますますがっしりとした身体になった。腕も脚も、ずいぶんたくましくなった。
 しがみついたときの手応えに、俺は子供に戻ったような気持ちになれる。だから雪男に暑いと言われて退かされても、俺は気分が良かった。いつまで経ってもヨーロッパの風景が途切れないのは、あまりいい気分はしないけれど。
 雪男が満足そうにテレビを消したとき、俺の髪はぱりぱりになったジーンズみたいに乾いていた。

「寝る?」

 と雪男に言われたので、

「寝る」

 と俺は答えた。
 俺がサイドテーブルにかかとをのせても、雪男は全く気にしない様子だった。



 俺と雪男は薄い毛布を被って寝た。男二人が寝ても十分広い、寝心地のいいベッドの上で。
 雪男はなんの悪びれもなく俺のシャツをめくりあげ、ふくらみのない胸を口にくわえた。寝るときはいつもそうだった。俺が先に寝ていても、雪男は俺の乳首を飲みながら眠りについた。
 俺は何も言わなかった。煙たがらずに、雪男の背中に手を置いて、そのまま一緒に夢のなかに落ちていった。そこで見る風化した自分の部屋を窮屈に思いながら、雪男を抱きしめてうなされた。
 ヨーロッパで羊毛を刈っていられたら、どんなに晴れやかなことだろう。そう思う。気持ちの悪いアパートから毎晩一歩ずつ遠ざかっているのを知りながら、身体の大きな赤ん坊を抱き、俺はうなされる。



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