放課後になって雪男が顔を出した。兄さん、と肩を揺すられて、俺はのっそりと顔をあげた。橙色の夕日が目にしみた。雪男は俺の前の席に座り、めやにがついてる、と言って俺の目元をそっとぬぐった。
俺は呼吸を忘れた。雪男が座っている席は、雪男を好きだと楽しくはしゃいでいる女の子のものだった。

「兄さんも友達作りなよ」

俺と同じ制服を着た弟は言った。

「誰にも起こしてもらえないじゃないか」
「…別に」
「どうせ授業も、あまり聞いていないんだろ」

俺は口のなかで、うるさい、とつぶやいた。

「それに、そのままずっと机のうえで寝てるのって、すごく悲しいことだと思わない」
「別に、布団のうえで寝たきりになるほうが、悲しいと思うけど」

と俺は言ってやった。
すると雪男は、ため息をついた。それから近しい距離で、目を伏せた。夕日が眼鏡のレンズを透き通り、雪男の瞳に光を持たせる。
俺は圧倒された。馬鹿みたいに綺麗だと思った。
遠い、とても遠いところから、生徒たちの喧騒がささやくように聞こえてくる。断続的に聞こえる小さな騒音は、蝉の鳴き声となんら変わりないように思える。みんみんみん、と蝉時雨みたいに。
俺は慌てて雪男に手を伸ばしていた。ほとんど無意識だった。雪男のほほを触り、額に浮かぶ汗をぬぐい、鼻のかたちを確かめて、乱暴に眼鏡を外して目元に指をおしあてた。眼鏡が俺の机に落ちたのを、伏せた瞳で雪男は見つめた。
みんみんみん、と生徒たちは鳴いていた。まだ5月なのに、蝉たちはもう活動を始めている。
いや、この学校にいる蝉たちは年中無休で鳴き続ける。だから憎たらしい、と俺はいつまで経っても、友達ができないのだ。
蝉の友達なんて、目覚まし時計のほうがよっぽどましだと。
めやにでもついてたの、と雪男は笑った。

「…別に」

俺は恥ずかしくなって手をはなし、雪男に眼鏡を渡してやった。

「塾、いい加減行かないと遅れちゃうんじゃねぇの」
「あと5分は、大丈夫」

雪男は目を伏せて、眼鏡をかけた。変わらず夕日はレンズを透き通り、雪男の双眸を照らしている。橙色に反射する雪男の目に、俺はたまらずため息をついた。
綺麗だと圧倒されて、もう随分経つ。他人を蝉にしか見れなくなったのも、多分そのときだ。
悲しいとかそんなんじゃない。俺は別に、蝉に起こされなくてもいいし、寝たきりになっても全くかまわない。だから、悲しいとかじゃなくて、たぶんこれは。

「兄さん」

と雪男は言った。輝きに満ちた瞳で。
俺はまた眼鏡を外してやりたい衝動にかられて、のろのろと手を伸ばしていた。

「兄さん」
「雪男」

俺は、お前のその目をえぐりだして、自分のものにしてしまいたいんだ。

「兄さん」

雪男は眼鏡に触れてしまいそうな手を取って、輝く瞳で微笑んだ。

「兄さん、僕ね、兄さんの人差し指を噛みちぎって飲み込んでしまいたいって、兄さんを起こすたび、思ってるんだよ」

人差し指が、雪男の綺麗に並んだ歯のうえにのせられた。雪男の歯は、当たり前だけど固かった。雪男はそのまま唇を閉じて、俺の人差し指を甘噛みした。指先に、気持ち悪いくらい柔らかな感触があった。雪男の舌だった。
俺は生まれて初めて、官能のため息をついた。

「俺だって」
「なに?」

器用に唇を動かして、雪男は喋った。

「俺だって、雪男の目が欲しいのに」

雪男は目を伏せて、俺の人差し指を口のなかで転がした。



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