御愁傷様、と心のなかで手を合わせた。戸惑いはなかった。けれど今現在の自分に置かれた状況を思えばその言葉はどう考えたって不適切で、つまりぼくは戸惑い、世界が止まったということだった。ぼくは一人で下校しながら、ちょっぴり違和感があってどこか心が浮き立つ二人に一瞬目が止まってしまった。
まだ中学生なんだから止まってしまうのは当然だろうけど、とにかく御愁傷様、御愁傷様ぼく。
悲しくもないし嫉妬心もわかないことにぼくは驚いた。強がっているわけでもなく、ほんとうにぼくは手をつないで歩く二人に泥くさい気持ちを抱かなかった。二人が脇道に逸れて見えなくなっても、ぼくは全く変わらなかった。ただ言えば、脳みそがどこかへ行ってしまったような、全身がふわふわとした感覚があっただけだ。
御愁傷様、と自分自身に言って言われて、それから繋がるものは、なにも無かった。
ぼくは肩にさげていた鞄を開けて一つの飴玉を取り出した。両端を絞ってある包み紙を開けて、舌のうえにのせた。しわくちゃの包み紙をポケットに入れる。舌を動かして飴玉を転がす。甘くなった唾液を飲みこみながら、レモン味が好きだ、と馬鹿なことを思う。レモン味が好きだ、もう何年も、レモン味だけが好きだった。ぼくは二人のことを考えずに、いつもの通学路を一人で歩いた。
ぼくはB組のネズミが好きだった。一年間、ネズミのことだけが好きだった。
家に帰ってくつろげばすっかりネズミのことを忘れていたけど、制服を着ている間はほんとうにネズミのことが好きだった。二年生になって同じクラスになれたけどあまり親しくなれないし、そもそも同性だし、望みも可能性も全くないから付き合いたいと一度も思ったことすらなかったけど、ぼくはネズミがほんとうに、……ほんとうに。頭のなかではキスしたこともあったくらい、もう何度も言わないけれど。
ぼくは一年生のころクラスの女の子たちに紛れて一目惚れし、ネズミが眩しくて眩しくてしょうがなくて、それから一度すれ違ったときに制服の裾がぼくの脇腹にあたって信じられないくらい動揺した。二年生になって共通の趣味があったおかげで少しだけ話すようになった。机が前後でくっついたことがあって、机のうえでぼくの腕とネズミの腕もくっついたこともあった。ぼくは顔が熱くて熱くてたまらなく、そうしてたまらなく幸せだった。
ネズミと何度もキスをした。付き合いたいとは夢にも思わないけど、ネズミと一度、セックスしたこともあった。そのときのぼくは、可愛かった。女の子みたいに可愛くて、前に踏み出すのを恐れる臆病者だった。仕掛けるのはいつだってネズミだった。ぼくは積極的なネズミに、ずいぶん助けられた。頭のなかにいるネズミは優しくて、ぼくの思うがままに動いてくれた。紫苑、とは呼んではくれなかったけど、ぼくの口にある飴玉を、舌を使って奪ってくれた。
「なにするの」
「レモン味だよな、いつも」
「好きだから」
「へえ」
言葉が素っ気なくてもネズミは優しくて、積極的で、従順だった。ぼくの頭のなかで、ネズミという名前の男の子はすくすくと育っていった。頭のなかにいるネズミが動くだけで、ぼくは興奮した。いやらしい気持ちになっていった。
これじゃあ付き合いたいと思わないのも無理もない。そう思った。
ただ、ぼくに対して優しくなくて消極的で何も従わないネズミに、一度でいいから紫苑と呼ばれたかった。
御愁傷様。
彼女がいるネズミに、おめでとうの一言さえ言えない自分の立場に打ちのめされて、明日もぼくは、レモン味の飴玉を受け渡す。