ふとした瞬間に見せる冷たい瞳に、紫苑はたまらなく悲しさを覚える。ネズミの冷たい瞳は紫苑の内側を優しく優しく傷つける。
紫苑はネズミが一本の煙草をくわえていたとき、泣きたいほど自身の内側を削られた。
ネズミの形のいい唇が煙草を吸い、真っ白な煙を吐き出していく。煙草の煙は受け付けられない匂いがした。どこか酸っぱくて、身体にまとわりつくような執拗な匂い。紫苑の懐に、子ネズミのクラバットたちが逃げ込んだ。紫苑の胸の上で異臭に怯え、震えている。
紫苑は目の前で喫煙するネズミをねめつけた。それに気付いたネズミは紫苑を眺め、色のついた煙を吐き出した。

「くさいだろ」

ネズミは微笑んだ。

「もらったんだ、おれに執着する客に。今までにも色々もらってきたけど、こんな嗜好品は初めてかも」
「くさいよ、ネズミ。クラバットたちが嫌がってる」
「好きにさせとけよ」
「ぼくもその煙、嫌いだ」

ネズミの眉間がひそやかに反応する。椅子の背もたれに寄りかかり、足を組んで、貰い物の嗜好品を口にくわえた。

「だったら外に出たら? 雨だけど、この煙よりはマシだろう」
「ネズミが消してくれたら、済む話なんだ」

ふっとネズミは笑った。

「嫌だね。せっかく楽しめるものがあるんなら、おれは楽しみたい。当然だ」
「でもそんなの、必要ないじゃないか」
「は?」

紫苑は、ゆっくりと唇を舐めた。

「煙草、もうすぐ無くなっちゃいそうだけど」
「うわ、ほんとだ。あんたが突っかかってきたせいで、一本無駄にした」
「……何本もらったの?」
「1ダース」
「誰かにあげなよ」
「はあ?」
「だから、ネズミにはそんなの、必要ないんだよ」

ネズミは、ひやりと冷たい陰鬱を瞳にうつした。革の手袋で短くなった煙草を握りしめ、冷たい瞳で紫苑を見た。紫苑の心臓が縮む。胸が軋み、指先への血流が止まった気がした。
紫苑は、いつだってネズミの幸せを願っていた。母親や親友を想うように、紫苑の体内はネズミでいっぱいに浸されていた。ネズミが少しでも冷たい瞳を忘れてくれたらと思う。ネズミの瞳に写し出される景色が、少しでも優しいものたちで溢れていたらと思う。ネズミにとって少しでも、少しでも心から笑っていられる毎日が訪れたらと思う。
そうして、ぼくは、と紫苑は考える。
紫苑は、ネズミに触れて、目と目を合わせ、互いの息づかいを聴き、心を開くことができたら、それでぼくたちは生きていけると思っていた。食べ物や、冷たい水、暖房器具、一人用のベッド、煙草のような嗜好品、そんなもの、必要ないと思っていた。紫苑はネズミを、ネズミは紫苑を思いやれば自然と必要なものだけが二人のもとに残り、不必要なものは排除されていく。紫苑は信じていた。だからこそネズミが冷たい瞳をするたびに、紫苑はたまらなく悲しい思いをした。煙草なんて吸うネズミは、紫苑の体内をこれでもかと傷つけた。
ネズミは紫苑のそばに寄り、胸元に隠れている子ネズミをそっと掬い上げた。紫苑がクラバットと名付けた子ネズミは、震えながら主人を見た。

「もう吸わないよ」

ネズミが苦笑する。
え、と紫苑は驚いた。

「ほんとに?」
「そんな泣きそうな顔されたら、たまんないよ」
「うそ! ぼく、そんな顔してたの?」
「二度とすんなよ、その顔。むず痒くなるから」

ネズミは目元をゆるめて、クラバットを肩にのせた。

「くさいから、シャワー浴びてくる」
「分かった」
「ほんとのこと言うと、あの煙草、苦手なんだ」

紫苑は笑った。まだ紫苑の胸に隠れていた子ネズミたちは、驚いて紫苑を見た。
紫苑は、誰かの幸せを願いながら、ふふふと笑った。

「ドア開けて、換気しようか」

紫苑の提案に、子ネズミたちが前足を叩いて喜んだ。



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