忘れられない昔の彼氏に勇気を出して連絡して、やっとこさ会えることになっていたはずだった。前日から頭が痛くて熱っぽくて、体調は最悪だったけどそんなの関係なかった。最低で最悪の男だったけど私にとっては十分魅力的だったそいつに、私はどうしてももう一度会いたかった。好きだったのだ。それほどまでに。

 フラつく体に鞭打って、待ち合わせ場所の駅まで行った。ガンガン鳴る頭がうるさいし痛い。立っているのもしんどくなって、ベンチに座って待つこと幾許。待っても待っても彼は来ず、見事にすっぽかされたのが嫌でもわかった。とてつもなく虚しくて悲しくなったけど涙を流す元気もない。おまけに体調は悪くなるばかり、体は熱いが寒気がひどい。膝の上のバッグに顔を埋めて気休め程度の睡眠を取ろうとしても街の喧噪が頭を叩く。帰らなくちゃ。そうは思っても体が言うことを聞かない。熱、やばいんだろうなあ、八度越えかな。私今、すっごくみすぼらしいんだろうな。自分のことが全部他人事みたいに思える。今何時だろう。もうすっかりお昼時かな。意識が朦朧としていく。本格的にヤバいのは わかってるけど、どうしようもできない。

「…おい、自分もしかしてみょうじさんか」

 上から降ってきた、聞き覚えのあるようなないような低い声に引き戻された。危ない、こんなところで寝たら流石にヤバいわ。ゆっくり顔を上げると、記憶にぼんやりと残っている男が立っていた。私が待っていた人じゃ、ない。誰だっけ。ええと、確かコンパで…医学部の…、あ、そうだ、忍足くんだ。騒がしいコンパで私と忍足くんだけが大人しくて、それで少しだけ話したんだ。連絡先も交換しなかったけど。それでもその後またコンパで出くわして短い会話だけは何度かしてるような。友達がイケメンって騒いでた、気がする。
「ええと、忍足、くん」
 忍足くんは私を見てあんぐり口を開けた。相当びっくりしてる。そりゃそうか、体調最悪、ってたぶん顔に書いてあるんだろう。ヤなとこ、見られちゃったな。
「ちょっと、自分顔色悪いどころやないで。大丈夫か」
 忍足くんは顔を上げた勢いでふらついた私の隣にさっと座って肩を抱き、支えてくれた。抵抗も何も、しんどくて忍足くんにされるがまま。何とも思わないし、寧ろありがたかった。忍足くんは私の体温に驚いたのか私の前髪をかきあげて額に手を当てた。大きくて冷たい手のひらが心地良い。

「熱、相当あんな。…みょうじさん、なんで出かけたん?無理なことくらいわかるやろに」
「ちょっと、大事な用があって…」
「…まあ、聞かんとくわ。それより、家どこ?タクシー呼んだるから、帰り。早よ帰って寝なあかんで」
「やだ、帰らない」

 あいつが来るかもしれない。そう思ったら帰るのが惜しくて忍足くんの優しさを跳ね除けた。何馬鹿なこと言っとるん、ときつく言った忍足くんは勝手に携帯でタクシーを呼んでいた。嫌だともっとハッキリ言ってしまいたかったけどそんな元気はもうなかった。家はどこかと聞かれて答えると忍足くんは突拍子もないことを言うのだ。

「俺の家来いや、そっちんが近いから。それに自分一人で帰ってもご飯もなんもできんくて困るやろ」
「だ、だいじょうぶだ、よ」
「あかん、自分ちこっからやったらタクシーで20分はかかるやろ?そないフラフラな女の子、そんな長いこと車に乗せるわけにもいかへんわ。心配せんでもなんにもせえへんよ。それより自分の体の心配しいや、自分が思っとるよりだいぶひどいで?おかゆくらい作ったるさかい、甘えとき」

 忍足くんは心から私を心配している顔でそう言った。こんなに心配してもらうの、いつぶりだろう。何度か話しただけなのに。忍足くんって相当お人好しのお節介なんだね。そうして素直に頷いた私を忍足くんはタクシーに乗せた。車の中で忍足くんは肩を貸してくれて、大丈夫かとかあと少しで着くからなとか、タクシーに乗っていた五分くらいの間にたくさん心配してくれた。忍足くんの住まいはモダンな学生アパートの三階だったけどエレベーターがなく、忍足くんに姫抱きにされ部屋まで連れて行かれた。どこの少女マンガだ。モノクロで統一されたワンルームは知的でお洒落だったけど私にそんなことを気にする余裕はない。抵抗する間もなく化粧を拭かれ忍足くんのジャージを着せられ、おでこに強制的に冷えピタを貼られ忍足くんのベッドに寝かされた私は、程なくして眠ってしまった。

「おはようさん、少しは元気になったか?」
 目が覚めると部屋着に着替えた忍足くんが私の顔をのぞき込んでいた。おはようなんて言うものだからもう朝なのかと思って時計を探すと、時計の針は夜の八時を指していた。体調の方はというと朝よりは全然マシ。これなら大丈夫、と思って忍足くんに帰る旨を伝えようとしたら忍足くんに手のひらで熱を計られ止められた。せめて微熱まで下がってからにしてくれとのことだ。そんなに迷惑をかけるわけにもいかないと言っても忍足くんは聞かなかった。私の言い分を無視して、あとでちゃんと熱計ろうなと微笑んだ。
「まだ、顔色だいぶ悪いで。なんか食べな。ホラ」
 忍足くんはちょうどいい具合に冷めたお粥を体温計と一緒に持ってきてくれた。昆布と梅干しが少しずつ乗った、懐かしくて暖かいお粥だ。忍足くんが作ったのだろうか。なんだかイメージと違うなあ。

「みょうじさん、食えるか?食べさしたろか」
「ん…、だいじょうぶ。…おいしい」
「そか。あ、ポカリもプリンもリンゴもあんねん。欲しかったら言うてな」

 そこまでしてくれるなんて。お礼を言ったら忍足くんはとても満足そうに笑ってくれた。なんて、優しい人なんだろう。上京してから一人暮らしで彼氏も料理下手だったから誰かの手料理も久しく食べてなくて、風邪を引いても一人でなんとかしていたからこの優しさは涙が出そうになるほど嬉しい。
 忍足くんに促されて熱を計るとまだ八度近くあった。忍足くん曰くここに来たとには忍足くんの体感でも九度以上はあったらしく随分短い間で下がってくれたようで一安心。

「みょうじさん、今日は泊まっていきや」
「それは、ダメだよ。彼女さんに悪い」
「なんや、みょうじさん俺に彼女おると思っとったん?おらんよ、そんなん。だから何も気にすることないで」
「…じゃあせめて床で寝させて」
「だめや。死んでもそんなことさせんで?ああ、ほな市販のやけど薬置いとくから飲みや。それじゃあちょっとレポート書かなあかんから食べたらその辺置いといてな。薬飲んでちゃんと寝るんやで、つってもそこで作業できるから見張っとるけど」

 忍足くんは横長のテーブルの上にノートパソコンを広げた。二人がけの黒いソファに腰掛け、膝に参考文献か何かを広げながらキーを叩く姿は相当様になってる。あの顔面で料理も出来て医学部ってそんな反則じゃないか。そんな忍足くんを横目にせっせとお粥を口に運んだ。前に風邪をひいた時、自分でお粥を作っても微塵も手を付けなかったのを思い出した。たぶんこれが私の自作だったら、あのときと同じようにドブに捨てることになったんだろうな。
 お粥を片して薬を流し込んで、忍足くんの言葉に甘えて横になった。カタカタと忍足くんがキーを叩く音だけが聞こえる。うっすら目を開けて忍足くんを見ていたらなに見とるんと微笑まれてしまった。不覚にも高なった胸の鼓動を、眠気とけだるさに任せて押さえつけた。
 
 次の日の朝、薬が効いたのか昨日とは比べ物にならないほどに頭もすっきりして気分もよかった。とっくに身支度も終えて大学に出かける準備をしていた忍足くんに、昨日着ていた私のをおしゃれ着の入った紙袋を手渡されてハッとした。そこで自分がノーメイクでだぼだぼの彼のジャージを着ていることを思い出して気分はどん底。
「なにこの世の終わりみたいな顔しとん?そない気にしいなや」
「気にする」
 忍足くんはケタケタ笑った。まあそれでなくても送ってったるけど、なんて車のキーを出した忍足くんに驚いた。車持ってんのか。ボンボンめ、私なんか車校に行くお金もないのに。
 そんなこんなで私のオンボロアパートまで忍足くんのマイカーで送ってもらい、仕舞いにはやっぱり何かの縁だからと連絡先まで交換してしまった。忍足くんに全力でお礼を言って軽く手を振り、彼が車を出したのを見送ったあとで大変なことに気がついた。私、忍足くんのジャージ着たままじゃん。どうしよう。肩幅も丈もウエストもだいぶ大きな忍足くんのジャージ。借りパクなんてできない。しても意味ない。あ、そういえば彼のメアドと番号をゲットしたんだった。また今度、改めてお礼もしたいしそのときに渡そう。そえ考えてる私の頭は、まだ微熱があることも元カレへの断てなかった未練も不思議と忘れていた。