彼女が僕のことを見てくれないことは、ずっと前から薄々わかっていた。僕が彼女と結ばれることはないであろうことを僕はわかっているのだ。それでも彼女が好きな僕を、誰もが嘲笑するだろう。僕も僕自身をあざ笑ってしまえるくらいには彼女の特別になることを諦めていた。いっそのこと、この気持ちも捨ててしまえればよかったのに。僕の恋人になってくれる女の子くらいいくらでもいる。その中に彼女がいたらどんなにかよかったか。
 だから僕は少しくらい嫌な顔をされたって、みょうじと話ができるだけで満足だった。彼女は僕のことを苦手苦手と言うけれど、何とも思われないよりずっとマシ。彼女が僕のことをきちんと頭の片隅にでも入れておいてくれているならそれでいい。僕が彼女にちょっかいをかけて、彼女が反応してくれるうちは僕は満たされているのだ。
 多くを望まないつもりでいた。でも僕も愚かで浅はかな人間でしかなかった。部活帰り、遅くなった帰り道、いつもは見かけないはずの彼女を見つけて思わず声をかけた。彼女はバツの悪い顔で嫌悪感を丸出しにしていたけれど、僕から逃げようとはしなかった。これだから君は、いつまでも僕に想われ続けるんだよ。

「どうしたの、こんな遅くに」
「塾、行ってた」

 寒空の下で君の頬は、ほんのり赤みがさしていて暖めてあげたくなる。僕より低い背丈の君を、包んであげられたらどんなにいいか。一生できないそんなあれこれを思い描く僕は気持ちが悪いと言われても仕方がないね。

「お疲れ様、もう遅いから気をつけなよ、みょうじ」
「うん…ねえ不二、この辺にファミレスってあったっけ」
「どうだったかなあ、あまり使わないから…ていうかみょうじ、今からファミレスなんか行ってごらんよ、補導されるよ。やめときなって」
「お母さんが遅くまで帰らないのに鍵、忘れちゃったの。仕方ないでしょ」

 僕はこの言葉を聞いて咄嗟に僕の家においでよと言ってしまったのである。下心見え見え、だけどそれこそ仕方ない。彼女と少しでも話がしたい、それくらいのかわいいものではないか。
 彼女は初めこそ怪訝な顔をしたものの、僕の予想に反して最終的には首を縦に振ってくれた。裕太はそもそも寮、姉さんは彼氏の家、母さんは温泉旅行、父さんは海外。まるで漫画みたいに都合よく誰もいない家にみょうじを通した。
 夕飯まで世話になるわけにはいかないという彼女を言いくるめて、作り置きしてあったクリームシチューをとりあえず彼女に出した。母さんの作った自慢のシチュー。みょうじはそれをおいしいと食べてくれた。僕が作ったわけでもないのに嬉しくて、僕が作ったのではないからどこか母さんが恨めしかった。
 それから彼女の母親が帰宅する時間まで僕らは完全に時間を持て余していた。シャワーを浴びようかとも思ったけれど、彼女がいる手前それも出来ずに興味もないテレビをぼんやりと眺めていた。僕にはテレビの内容なんてちっとも入ってこなかったけれど。彼女は気だるげな顔で画面を眺めていた。くるんとゆるくカールした睫毛が女の子らしくて、顎のラインも女の子で、長くのばした髪の毛からは柔らかなシャンプーの香りがするんだろう。そう考えると僕の頭はいけないことばかり考えて喉を生唾が通るのだ。
 不二も、こういうの見るんだね。みょうじはバラエティの流れるテレビを指して言った。ときどきね、と笑って僕は邪念を振り切った。あのねみょうじ、僕が見てるのはこんなつまらないテレビじゃなくて君なんだよ。声を荒げてそう言いたい。いつだってどんなときだって、僕が見てるのは君なのに。

「あ、私、そろそろ帰るね。もうお母さん帰ってくるから。ありがと、それとごちそうさま」
「大丈夫?送るよ」

 それには彼女は首を横に振った。玄関まで彼女を見送る。可愛らしく革靴に足を通す彼女の、名前を呼ばずにはいられなかった。僕はもう止められなかった。小さく首をかしげて振り向くみょうじにすっと顔を寄せて唇を軽く塞いだ。女の子特有の柔らかで暖かい唇からはほんのりリップのピーチの味がした。目を見開いてる彼女。ごめんね、初めてだったかな。みょうじの唇が小さく震えながら僕の名前を紡いでいた。ごめんね。

「これはカウントしなくたっていいから、忘れてね」

 よかった、うまく笑えた。ほら早く帰らないと、と彼女の背中を押すと彼女は一度だけ振り返って小走りに家を出ていった。愛しい背中に、閉まったドアに、何度もごめんねと呟いた。頬が熱い、いつの間にか涙に濡れていた。ごめんね、最低な男で、ごめんね。誰もいない玄関にひとりぼっちでうずくまった。とめどなくあふれる涙を両手で拭うと小さく嗚咽が漏れた。情けないなあ。涙も嗚咽も子供みたいに出るのに、思考だけはやけに冷静だった。唇にほんのり残るピーチの香りを僕は一生忘れないだろう。それと同時に胸に残る罪悪感も消えることはないのだろう。ごめんね。何度呟いたかわからない。涙で濡れたフローリングの木目を泣き腫らした目でぼんやり見つめたところで何も変わらないのだ。ごめんね。それでも呟く僕の言葉が彼女に届けばいいなんてとってもおこがましいよね。ごめんね、そんな言葉と涙と共にこの気持ちも捨ててしまえればいいのに、なんて。