紅玉の誘いに惹かれ

 あぁ、なんだか疲れたな。今度東京駅のデジタルサイネージを華やかに飾るTHRIVEの駅広告のデザインやキャッチコピーを考えるために一日中デスクワークをしていたものだから、すっかり全身が凝り固まってしまった。作業もひと段落ついたし、少し筋肉をほぐすためにも近場のお店まで飲み物を買いに行こうと立ち上がり、廊下に出て歩を進める。現在は定時だからちらほらと別の部署の方が帰宅する姿が見られるけれど、わたしはもうちょっと残業をして片付けていかないといけない。
 ついでだから何か軽食みたいなつまめるものも欲しいかも。そうぼんやり考えながら階段を降りると、エレベーターの近くで壁に寄りかかっている見慣れた姿を視界に捉えた。

「あれ……剛ちゃん?」
「よう、美作。仕事終わりか?」
「ううん、わたしはもう少しやらなきゃならないことがあるから飲み物と軽めのご飯を買っていこうかなって……剛ちゃんは? つばさちゃんか夜叉丸さんでも待ってるの?」
「いや、オマエに用があって来た」
「……わたしに?」

 仲がいいとはいえ、仕事上はA&Rのつばさちゃんや今までBプロの面倒を見てきた夜叉丸さんほど深い関わりがあるわけでもない一端の社員に時間を割いてわざわざガンダーラまで足を運んでくるなんて、何の用件だろうか。
 すぐ終わるし歩いてでも話せるからととりあえずふたりでエレベーターに乗り込み、ショッピングモールへ向かう道すがら剛ちゃんが切り出した話の内容に耳を傾ける。

「実はこの前、ミュージカルのチケットを貰ったんだ」
「あ! これってあの有名な……」
「知ってんだな。けど、これ二枚あってよ。オレ一人で行ってもいいんだが勿体ねーし連番なんだよ……よかったら美作も行かねェか?」

 オマエ、ミュージカル鑑賞好きだったろ。
 有名な劇団のロゴが入ったチケットを手に持ってそれをひらひらと振り、誘いを持ちかけてくる剛ちゃんに目を丸くする。
 確かに彼の言う通り、わたしはミュージカルやオーケストラを観るのがとても好きだ。剛ちゃんが仕事先で譲ってもらったという公演にも興味があったし、ぜひご一緒したい気持ちはある。
 ただ、けーくんや悠ちゃんをはじめとしたBプロメンバーの方が親交も深いだろうし、彼等ではなくていいのだろうか? 遠慮がちにそう問えば、そもそも忙しくて都合が悪いし──騒がしくてかなわないからその気がないという辛辣な言葉は聞かなかったことにしよう──どうせなら趣味が合うわたしと一緒に観劇したかったのだとか。
 そう思ってくれるのも、わたしの趣向を覚えていて真っ先に思い浮かべてくれるのも素直に嬉しい。頬が緩むのを自覚しながら、わたしは剛ちゃんに答えを出した。

「それなら、今回はご厚意に甘えようかな」
「OK、オレも助かった」

 わたしは忘れっぽい一面があるから、チケットは当日まで剛ちゃんに預かってもらおう。彼にもそれを伝え、了承を得る。
 公演はまだ一ヶ月程先だけれど、楽しみな予定がまたひとつスケジュールの項目を埋めた。これを糧にまた仕事を頑張れそうだ。

 剛ちゃんの用事も済んだことだし、自分は残りの仕事を熟さなきゃいけないからここまでで大丈夫だと帰路に着くことを促せば、わたしの買い物からガンダーラまでの見送りまで付き合ってくれると申し出てくれたのだ。
 アイドルの仕事は不規則。明日も番組収録やらレッスンやらで一日びっしりだろうし、少しでも早く自室に戻って休息を取った方がいいんじゃなかろうか。そう伝えても、彼はどうせ帰っても阿修がうるさいし愛染も小言を呟いてくるから余計に疲れるだけだなんて呆れた様子でこの場から離れる気配がないものだから、お礼とともに二つ返事で了承してしまった。本当によかったのかな。

 他愛ない会話を続けているうちに短い距離はあっという間。ショッピングモールに到着し、鍔を下げてより深くキャップを被った剛ちゃんと店内を練り歩く。わたしは今空腹状態なので、そこら中から漂う食欲を唆る香りも相俟ってなにもかもが誘惑だ。そんなに胃袋が大きいわけでもないのに余計な量を買い込んでしまいそうである。
 どれにしようか迷った挙句、ふわふわの厚焼き玉子が目を惹くサンドイッチとチョコレートクリームが挟まったドーナツに決め、注文してくる旨を剛ちゃんに伝えようと振り向いたところ、じっと彼がある一点を見つめているのに気付く。視線の先には有名ハンバーガーチェーン店。もしかして気になるのだろうか?

「剛ちゃん、剛ちゃん」
「! あぁ、決まったか?」
「うん、わたしあそこのサンドイッチとドーナツ買ってくるね」
「分かった。オレあっちの店行ってるな」
「ハンバーガー、好きなの?」
「……だったらなんだよ」

 ほんのり頬を染め、照れ隠しをするように目を伏せる彼につい口元を緩ませてしまう。些細な変化だけれど、先程の剛ちゃんの瞳が子供みたいにキラキラしていたのだ。
 突っ撥ねても否定しないのは肯定の証。ああ、素直じゃないな。なのにこんなにも嬉しいのはきっと彼が素を見せてくれているから。

「ううん、わたしもハンバーガー好きだから気持ちはわかるよ。美味しいよね」
「……そうかよ」
「それじゃ、行ってくるね! 終わったらあそこのベンチ付近で!」

 集合場所を指定し、アプリのためのスマホと財布を取り出して目的のお店に向かう。
 ここしばらくで、入社以降あまり直接的な関わりを持たなかった剛ちゃんとの親睦をたくさん深めた。彼の好きなものを、彼の意外な一面を知る度、喜びに満ちていく。
 正直わたしは人と関わるのも人と会話をするのも得意ではないし、人見知りに加えてそもそもこれまでのトラウマ故に人自体に苦手意識を持っている。普段愛想良く当たり障りのない態度で振舞っているのも、それを悟られずにやり過ごすため、輪の中から省かれない術を身につけるため、厄介払いされたくないから──そんな理由でしかない。
 でも、剛ちゃんとは接していくうちに警戒心が解けていって、隔たる壁も罅割れて壊れ、今ではいつの間にか何かを共有したりお話する時間がひとつの楽しみになっていた。今まで第一印象や先入観で恐らく相容れない部類だと思い込んでいたのが申し訳ないくらいには。

 こんなにも誰かに関心が湧いたのは初めてで、誰かと過ごす日々が楽しいと感じたのも久しぶりで、それが何故なのかわたしには分からない。

「おまたせ!」
「ん、そしたら戻るか」
「剛ちゃんの袋からすごくいいにおいするね、お腹空いちゃった。今日お昼あんまり食べられなかったんだ」
「オマエ飯くらいしっかり食えよ」
「時間取れなかったからねぇ」

 ただ、この平和な日常を手放したくない、噛み締めて大事にしたいと、そう思えるのだ。

- ナノ -