あの旋律はきっかけに過ぎない

 テンポが崩れ、音のバランスが狂うと、甘い音楽も不快なもの。人の暮らしも同じなんだ。
 とある劇作家のこの言葉を耳にした時、まったくもってその通りだと同意した。ひとたび軸が逸れてしまえば、一気に耳障りな不協和音へと変貌する。

 ──出る杭は打たれる。果たしてわたしにこの諺に見合う才能があるのかは定かではないけれど、そんな理論で弾かれていたのかもしれない。
 沢山頑張ったら褒めてもらえる、実力だって身につく。自己肯定感を高める一種として努力を重ね、結果を出していたわたしはいつの間にか人の輪から外されていた。調子に乗るな、出しゃばるな、いい子ぶってんじゃない──元々気弱なのもあって、こわくて何も言い返せず黙りを決めていたから、尚更色んな罵声を浴びせられて。なんで同じ成績がいい子でも、どうしてそっちは賞賛を浴びせれているのか、わたしだけがこんな目に遭っているのか。当時の自分には理解し難くて。そのうち、笑って耐えていればきっといつかみんなも飽きて終わる、乗り越えられると諦めにも似た感情すら生まれた。

 そんなわたしの日々の癒しが音楽だ。これに触れている時間は、痛みも辛さも苦しみも寂しさも、何もかもを忘れられるし筆舌に尽くし難い高揚感が募る。日常を彩る何よりの楽しみで、生き甲斐。

「わ、きれいなピアノ……」

 あの日もたまたま、気の向くままに旋律を奏でただけだった。
 街ゆく人々で雑踏している都会の大型店。先月入社したばかりの勤務先での怒涛の仕事を終え、退勤の喜びに足取り軽く歩いていたわたしは、今日一日頑張った自分への褒美に少し奮発して前から行きたかったレストランで食事でもしようととある複合施設に寄っていた。そこで偶然視界に入った、一台のアップライトピアノ。
 こんな場所にストリートピアノがあったんだ、可愛いな。吸い寄せられるようにそちらの方へ近づき、折角だからと荷物を備え付けの台に置いて椅子に腰掛ける。このピアノはどんな素敵な音色をわたしに聴かせてくれるのだろう。湧き上がる期待と共に鍵盤を指で弾き、ペダルを足で踏む。まずは指鳴らしに比較的短めの曲から。

 アップライトピアノはグランドピアノとの構造が異なり、ハンマーの戻りが少々遅いため鍵盤のタッチが重く底まで押さなければ音色が発されない。だから連打の難易度も前者の方がよりハードルが上がる。でも、わたしは普段からアップライトピアノで練習を重ねているから無問題だ。その分グランドピアノの引き心地の軽さに驚かされるのだけれど。
 流れるメロディーが身に染みてくるようで、先程までの疲労や鉛の如く沈んだ気持ちが浄化されていく。ああ、やはり音楽は素晴らしいコンテンツだ。ずっとこんな時間が続けばいいと考えてしまうが、永遠は無いのだから。一音一音を大切にしていこう。

 この時のわたしは鍵盤を奏することに夢中で周囲が見えておらず、気づいていなかった。まさか、あの人気アイドル──金城剛士くんに演奏現場を目撃され、立ち聞きされていたなど。
 そして、今後の彼との関わりがわたしを変えていくだなんて、予想できるはずもなかった。


 いつも穏やかな笑みという仮面を貼り付けて人に接している中途半端なヤツ。アイツに対しての第一印象は、はっきり言って決していいものではなかった。
 自分を持たず周りに流されて生きている、オレとは正反対かつ一番反りの合わないタイプの女。人の良さを前面に出しておきながら、仄かに周囲の顔色を窺う態度が気に食わない。THRIVE担当の宣伝・広報課に配属されたというだけのアイツへの興味は呆気なく直ぐに逸らされた。

 けれど、オレはあの日確かに目撃した。聴いてしまったのだ。
 音楽番組の収録が終わり、終業した人の波で溢れ返る夕刻。そういえば欲しいCDがあったのだと取扱い店舗へ歩を進めていると、己の耳が鼓膜に入り込んできた音の粒子をキャッチする。そちらの方を振り向けば、一角に小さな人集りができていた。店のスピーカーで流しているには音が立体的すぎるし、あそこにはストリートピアノが設置されていたはず。誰か弾いているのだろうか?
 一体何なのか確認するために近寄ってみた刹那、ドクンと鼓動が大きく波打った。
 柔らかく繊細な、それでいて盛り上がるところは豪胆で、演奏者の熱い想いが乗せられたピアノの旋律。聴覚だけで察せる。その空間がメロディーに彩られ、喧騒にすら溶け込んで一つの世界が完成していた。あまりにも表現力や技術が洗練されすぎていて、音色の響きに品と正確さが兼ね備えられている。しかも難易度の高いクラシックでこの技術力を魅せられるのは相当の腕が無ければ不可能だ。
 もっと鮮明に聴きたい、正体を知りたい。好奇心に駆られた心は自然と行動に反映され、オレの足はそちらへ誘引される。
 
 するとそこにあったのは、姿勢のいい居住まいで鍵盤を滑らかに弾く先日対面したアイツの姿。今まで瞳に映していた同一人物は幻覚だったのかと錯覚するほど、活き活きと輝いていた。
 そして、気づく。コイツもちゃんと「自分」を持っていたのだと。オレが認識していたのは外面だけに過ぎないと。目に入る情報だけに踊らされ、何も見ようともしなかった。

「……すげェ」

 曲が終局へと突入し、余韻を残してアイツが鍵盤から手を離した瞬間、オレの声帯が震えて小さな音を成し、周囲からも割れんばかりの拍手が起こる。
 原石のままにしておくだなんて勿体無い。この才能は磨けば間違いなく光る。
 演奏に集中していたのか、漸くギャラリーに気づいた様子のアイツは慌てて頭を深く下げ、少し顔を赤くしてバッグを手に立ち去る。人が散り散りになったのを確認し、早足で駆け寄って肩に掌を置いた。

「おい」
「……ッ!?」
「あ……驚かせちまって悪い」
「かね、ッ……金城くん、ですよね? こ、こんなところで……どうかしたんですか?」

 突然呼び止めたからか、咄嗟にこちらの方へ弾かれたように振り返った相手は一瞬全身を固まらせ、動揺した様子で途中まで呼びかけていたオレの名前を口に出すのを堪え、深呼吸をして改めて小声で発する。こんな人気の多い場所で「金城剛士」がいるとバレたら大騒ぎになるから、大声を出さず冷静な判断を下してくれて助かった。

「さっきのピアノ、オマエが弾いてたんだろ? あんな綺麗な演奏できんだな」
「……はぇ?」

 素直な感想を述べれば、今度は面食らったように目を丸くして腑抜けた声を零す。そんなにオレの反応が意外だったのだろうか。

「あの……金城くん、聴いてたんですか!?」
「ああ。気になってな」
「うっそ……恥ずかしい……」
「んな恥ずかしがることねーだろ、素直に誇れよ。ここまで魂が震えるような曲披露できんの、すげェことだぜ。聴いてて揺さぶられた」

 心が高揚感に包まれ、芯まで響いてくる。プロでもないのにここまでレベルの高い実力を発揮できる人間なんてそうそういない。旋律を少し耳にしただけで惹き込めるのは一種の才能だ。
 当初の無関心はどこへやら、俄然コイツに興味が湧いてきた。

「なぁ、悪いけど名前なんつったっけ? オマエの話、もっと聞かせてくれよ」
「私? そういえば一度しか顔合わせしたことなかったもんね……美作たまみです」
「ンな堅苦しくなくていい、どうせ歳同じくらいだろ」
「え、うーん……いいの? じゃあお言葉に甘えて、よろしくね、金城くん。ピアノも褒めてくれてありがとう」

 それと、立ち話もなんだからどこかに寄らない? ちょっと気になってるレストランがあるんだ。
 そう言って少し照れくさそうにはにかむ美作に、初めて「素顔」を垣間見た気がして。

 他人に敷かれたレールの上を歩くつもりはない。自分は自分の道を行く。
 歌に、音楽に生きる色恋沙汰に興味を持たなかったオレが、まさかこれが異性に恋愛感情を抱くはじまりだったなど、まだ知る由もない。

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