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(manicure)



ツンと鼻を突くような独特の匂い。一度触れてしまえばたちまちそこは赤く染まり、ひやりとした感覚はむしろ自分の指先の体温を感じさせる。小さな瓶の蓋に付いた幅数ミリ程度の細筆は、つやつやとした深紅をたっぷりと吸い込み、軽く揺らすだけで机に丸い染みを作った。スポットライトのようなランプの下、一本、また一本と彩られていく爪先。強いシンナーの匂いが自然と脳に麻酔をかけて、できあがった10本の指先はまるで手の平から切り離されてしまったかのように甘い痺れに侵されていた。
一通り塗り終えると、光沢を付けるためにもう一度同じ色で更なる彩りを添えていく。染まる指先に目を凝らし、はみ出さないように慎重に更なる色を重ねようとした。その時。


「あがったぞ、幸村」
「わっ!」


突如背後に現れた人影に、思わず持っていた筆を落としてしまった。振り返ってみれば、そこには見慣れた上半身をさらけ出したお堅い顔の俺の恋人。


「真田…お風呂入ってたんじゃなかったの」
「あれから30分は経っているぞ」
「…あ、そ」


30分。俺はそんなに長い時間、この小瓶と格闘していたのか。
机の上に転がったままのマニキュアをとり、筆先が曲がらないように丁寧に蓋をする。零れた液体はティッシュで適当に拭き取ってゴミ箱へ投げ捨てた。幸い、既に両手の全ての爪に色付けた後だったので、被害はこれだけ。崩れていない自分の両の手を見てほっと息をついた。

加害者の真田はというと、ホテルに備え付けられていたバスローブを羽織り、ドライヤーを持って部屋の中をうろうろしている。どうやらドライヤーの挿し口の位置がわからないらしい。


「コンセント、ここにあるよ」


トントン、と今まで自分が使っていた机の側面を叩けば、それに気がついた真田がありがとう、とお礼を言いながらすぐ隣のソファに腰を下ろした。スイッチを入れたドライヤーが大きな音を立てて真田の黒髪に風を送り始める。鏡も見ずに雑な動作で乾かしていく様子を、俺は両手で自分の顔を仰ぎながらぼうっと眺めた。
雑と言えばバスローブの羽織り方もそうだ。普段自宅では浴衣だの袴だの似たようなものを着ているくせに、ちょっと洋風になった途端勝手がわからなくておかしな着方になってしまう。今だって白いバスローブは既にはだけかけていて、たくましい上半身が3分の1も見えている。きっと指摘すれば彼はすぐに直してくれるのだろうけれど、真田のこの男らしい身体つきが大好きな俺は何も言わずにそれを堪能することにした。

真田が動くたびに見えるのは、盛り上がった胸筋、きっちり割れた腹筋と、広い肩。そこから伸びる太い腕はあまり見えないけれど、大きな手の平や骨張った指は意外と綺麗な形をしている。身長が高いというのもあるけれど、全てのパーツが俺よりも一回り、場合によってはそれ以上大きくて、同じ男なのにまるで違うその作りが俺にとってはとても魅力的だった。そしてそんな真田の身体が全て俺のものだと思うと、どこからか湧き上がる充実感に思わず頬が綻んでしまう。
付き合い出した当初は二人きりの空間で肌を曝け出すということすらままならなかったけれど、回数を重ねるうちに彼もこうして気を抜いた姿を見せてくれるようになったし、俺も自然な流れに身を任せるようになった。真っ白な関係が慣れや経験によって徐々にお互いに染められて、やがて自分好みの色に変化を遂げていく。俺はその様がとても好きなのだ。

黙ってドライヤーをかけ続ける真田を見ていたら、さすがに彼も気がついたのか顔を挙げてドライヤーのスイッチを切った。


「幸村。その手、そんな趣味があったのか」


真田が気にとめたのはどうやら俺の両手に塗られた赤のマニキュアのようだ。興味津津に見つめてくるものだから、俺は、ほら、と両手を掲げて見せてやった。


「妹がくれたんだ。明日には落とすけどね」
「ほう……器用なものだな」
「あはは、そりゃあ、バスローブの紐も上手に結べない真田よりはね」
「ぐっ…」


俺はすっかりはだけてしまった真田の胸元に手を伸ばし、綺麗に襟を合わせて紐を結んでやった。恥ずかしいのか顔を赤くしたまま押し黙って、大人しくされるがままになっている彼はどこか可愛らしい。ついつい頭を撫でてみると「調子に乗るな」と優しく払いのけられた。


「爪に色を付けるなど、女のようだ」
「でも、似合うだろ?」


真田の右手を取って、手のひらに自分の左手を重ねる。今やすっかり乾いた爪先のそれは、血のような濡れた色で目の前の相手を誘っていた。


「……ああ、とても、な」


左手の爪に落ちていた真田の視線が静かに持ち上がって俺を捕えた。濃い色の瞳が、先程の初心なそれとは打って変わって、その静けさの中に僅かな熱を宿して俺を射抜いていく。

昔から真田はこうだ。硬派と言われる彼は、日本の男――武士と言った方がいいだろうか――らしい流されない強い意志を持っているにもかかわらず、時々こうして隠しきれない雄がそのまっすぐな瞳から漏れて出る。普段の暑苦しさとは全く別のその熱は、俺を内部からじわじわと侵食して結局欲情させられてしまうのだ。彼の手を握ることで自分から誘ったつもりだったけれど、落とされたのはむしろこちらだったようだ。

俺は真田のたくましい太股に跨って、両手で彼の頬を優しく挟んだ。鼻先が触れ合うほどの至近距離で絡む視線。呼吸に合わせて揺れる前髪の先と、唇に触れる吐息。自分でもわかるくらいに扇情的な笑みを浮かべながら高い鼻に口づけると、ぐっと息を呑む音が聞こえた。リードする優越感に浸りながら額、瞼、頬、顎と順番に口付けて、最後に薄い唇に触れる。そっと首の後ろに手を回すと、強い力で抱き寄せられてキスは深いものに変わった。


「んっ…」


苦しさに漏れる息。次第に熱くなる身体。身を捩って大きな背中をまさぐれば、答えるように真田の腕が俺を抱いてくれる。
ドサリと音をたてて世界が反転する。真っ白な天井を遮ったその人が、硬派とは程遠い欲に濡れた瞳で俺をじっと見降ろしていた。


「幸村…」
「ね……きもちよくして」


デスクサイドに伸ばした手でライトを消す。指先が絡め取られて、すぐに呼吸を奪われた。
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