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気がついた時には、私は更に腕を伸ばして彼の手を掴んでいました。
引きとめたかったのです。死ぬつもりはないと言っている彼ですが、今ここで引きとめておかなければ遠くに行ってしまう、そんな気がしたのです。


「……お前さん、なんで、泣いとるん」


振り返った仁王くんが驚いたように目を丸くさせてこちらをまじまじと見つめています。掴む手には自然と力が込もりました。
なんで、なんて。
仁王くん、あなたのせいに決まっているじゃあありませんか。


「私も、怖い。…あなたを失うのが」


ぽたり、ぽたり。頬に伝った涙が乾いた地面に跡を残していきます。逆光になった仁王くんの表情は見えませんでしたが、私たちは1枚の柵越しにお互いを見つめあったまま、術にでもかかったかのように指1本動かせないでいました。


「死にたいなんて言わないでください。悲しすぎます」
「……」
「仁王くんは思い残すことがなくても、私にはあるんですよ。……あなたなしにして私はこの先どうすれば良いのです」
「……」
「せっかく組んだダブルスも放り出してしまうのですか。ようやく、あなたのことが分かってきたと思っていたのに」
「やぎゅ、」
「わかりませんか。私は、仁王くん、あなたのことが…っ」


こんなにも誰かを失いたくないと思ったのは初めてです。
こんなにも誰かのことで胸がいっぱいになったのも初めてです。
心臓をぎゅっと締め付けられるような、それでいてあたたかく幸福を感じるような、この感情。
ずっとずっと伝えたかったことがあります。仁王くん、私はあなたのことが好きなのです。


「……もういい、わかったぜよ」


突如ぐっと身体を引かれて、思わずバランスを崩しました。背に回された両腕、頬に触れる銀の髪。私は、その言葉を口にする前に、いつの間にか柵の向こうから戻ってきた仁王くんにきつく抱きしめられていました。


「悪かった。今の話は全部ウソ。ペテンじゃき」


強い力で抱かれると触れているそこから温もりが伝わります。ああ、仁王くんが戻ってきました。彼の足はきちんと地についていて、今、私に触れているのです。繋がった影を見てこの上ないくらい安心した私は、溢れる涙を止めることが出来ずに彼の肩に顔を埋めて泣きました。
「ごめん、もう……死なんから」










「本当は心残りもたくさんあるし、死ぬ気もないぜよ。お前さんが必死に心配してくれとるのを見とったら、嬉しゅうて調子にのってしもうた。すまんかったのう」


ようやく涙が止まった頃には仁王くんはすでにいつもの薄笑いを浮かべていました。

さて、早速ですがその台詞はとても聞き捨てならないですね。


「嘘、だったんですか?」
「おん」


せっかく落ち着いたのもつかの間。今度は先程までとは別の意味で熱い何かがこみ上げてきました。この男、こんなタチの悪い手口で、なんと私までもペテンにかけていたというのです。


「あなたって人は…!今までの私の涙と時間を返したまえ!」
「わ、悪かったって」
「今の数十分間の間にどれだけ私が悩み焦り不安に駆られたと思っているんですか!」
「じゃから、やぎゅ、」
「大切な人を失うなんて考えただけでぞっとします。もうこんな思い二度とごめんですよ」
「ああ…本当、ごめん。もうせんって誓う」


肩を掴んで前後に揺すれば、仁王くんはまた観念しましたとでも言うように両手を挙げて目を泳がせました。ある程度本音なのでしょう。本人は気付いていないようですが、彼は嘘をつかない時に限って人の目を見ない癖があります。


「…での、柳生」
「なんです?」
「さっきからのお前さんの言葉は…その、告白にしか聞こえんのじゃが」
「!!」


ああ、なんということでしょう。
告白、と改めて聞くと、どうにも恥ずかしくてなりません。確かに先程私は彼に思いを伝えようとしました。でもそれはあの緊迫した危機的状況だったからであって……いえ、決して彼への好意が途切れたわけではなくて。今だって、今だって本当はすごく胸がどきどきしているのです。でも、こんなふうに彼のほうが赤くなるとは思ってもいませんでしたので、


「ええから。言って、お願い」


不意にぐっと抱き寄せられて、身体も顔も至近距離まで近づきます。
仁王くんの吸い込まれるような琥珀色の瞳には情けなく泣きそうな顔をした私が移っていました。じっと見据え、そして、静かに伏せられていく銀の睫毛がほんの微かにその先を揺らします。夕焼け色に染まった一筋の滴が遠慮がちに頬を伝いました。

――まったく、あなたと言う人は本当にタチが悪い。


「……仁王くん」


こんなときもあなたは何も言わないつもりですか。


「なぁに」


私が手を掴まなければ、飛んで行ってしまうのですか。





「愛しています」





本当はわかっていました。今日のあなたの言葉には一つも嘘なんてなかったこと。告白をせがんだのも、私をからかったのも本気ならば、飛び降りようとしたのも、それに恐怖を感じたのも事実なのでしょう。
あなたは少しだけ捻くれていて、風のように掴み所がない人だから、捕まえるのに少しだけ時間がかかってしまいましたね。


「……俺もぜよ」


ぽたり、ぽたり。
落ちるあなたの涙は、どこまでも透明に澄んだ色をして私のシャツをあたたかく濡らします。夕焼け色の屋上には重なった私たちの影が、長く長く延びていました。
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