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※「君と、」の過去話





ぽたり、ぽたり。不意に落ちてくる私たちの記憶は、まるで涙のような色をしています。私たちにしか見えない、どこまでも透明で澄んだ輝きです。



(Sign)



屋上へ続く階段を上りながら私は盛大に溜息をつきました。この先にいるダブルスのパートナー――仁王雅治くんは少々、いえ、大変素行が悪い方です。今日も部活の練習をサボり、終了間際になってメールで私を呼び寄せました。さすがに2年になったばかりの私が先輩方を差し置いて先に帰るということはできませんでしたので、後片付けを全て済ませたあとにようやく部室を後にすることができましたが、その頃にはもう日も傾いてしまっていました。

サボり癖のある仁王くんですが、実は私もほかの部員たちも特に咎めることなく彼を見逃しています。あの真田くんも「けしからん!」と憤慨しつつも、仁王くんが部活に顔を出した時に軽く注意する程度で留まっています。というのも、彼のテニスセンスは入部当初から異彩を放っており、正直言って強いのです。テニス経験があるとか、部活以外にスクールに通っているとか、噂は多々存在しますが実際は何一つわかりません。ダブルスを組んでからは以前よりも仲良くなったつもりですが、まだまだ未知の部分が多い方です。

だから、なのかもしれません。私が彼に惹かれているのは。
仁王くんは逃げるものを追いかける癖があります。しかし決して追いつこうとはせず、相手が振り返った瞬間に今度は彼のほうが逃げていってしまうのです。何を考えているのかわからない、いつも飄々としていて、まるで風のように通り抜けていってしまう。真面目で紳士と呼ばれているような私とは正反対。何一つ共通点のない彼にいつしか私は魅了され、次第に目が離せなくなっていきました。
私はきっと彼のことが好きです。友人としても、相方としても、そして一人の男性としても。

屋上の重い扉を開けると、辺りはすでに夕焼けに包まれていました。暗くなる前に降りなければ学校に閉じ込められてしまうかもしれません。私は広い屋上をぐるりと見まわして、給水タンクの脇に長く延びた影を見つけました。


「仁王くん」
「やーぎゅ、遅かったのう」


私の声に、外を向いていた仁王くんが、後ろ向きにごろんと倒れてこちらを見上げました。
掲げた手に1本の煙草を持って。


「また、そんなものを吸って…」


制服には似つかわしくない紙の筒。燃えている先端からジリリと灰が落ちています。私は仁王くんの指の間から煙草を抜き取ると、傍らに置いてあった携帯灰皿に押し付けて火を消しました。


「体に悪いですよ」
「へいへい」


仁王くんの喫煙は今に始まったことではありません。屋上に誰もいないような時はいつも吸っているような気がします。私は風紀委員として、いえ、人として、その犯罪行為を見逃すわけにはいきません。始めの頃は抵抗する彼を抑えて没収したこともありました。先生に連絡しようとも思いましたが、その時はどうしても言わないでほしいと彼に頭を下げられてしまい、どうしたことか私はその要求を承諾してしまいました。

私は彼のこの喫煙行為には何か特別な理由があるのではないかと思っています。世間の中学生のいう、単なる見た目の格好良さだとか、世に反抗したい思春期ならではの行動だとか、そんなものではない気がするのです。
だって、一人で煙草を吹かす彼の瞳はまるで夜の闇のように暗く、痛々しくて、酷く悲しい色をしているのですから。


「聞いてもいいですか」
「何を?」
「煙草の理由です」
「そんなもん、不良っぽくてかっこいいからに決まっとるぜよ。優等生のお前さんにはわからんじゃろうがなぁ」


仁王くんは私の目を見ていつものにやりとした笑みを浮かべました。ああ、これは嘘をついている時の態度。そんな誤魔化しが私に通用するとお思いですか。


「そんなことを言ってほしいのではありません」
「ははっ、…まったく柳生さんには敵わんのう」


絡まる視線を外すことなくじっと睨み返すと、仁王くんはやれやれと両手をあげて降参のポーズを取りました。
最近気付いたのですが彼は意外と私と対峙すると弱く、そしてそういう時は決まって諦めが早いのです。

仁王くんはひょいと身軽に立ちあがり転落防止用の柵に寄り掛かりました。こっちに来んしゃいと手招きされたので、私も隣に並んで校庭を見降ろします。下校時刻を回った学内は人もまばらで、同じテニス部員がラケットバックを抱えて帰っていく姿が見えました。


「…吸うたら少し、死に近づけるような気がしての」


ぽつり。呟いた声が静かに鼓膜を揺らします。小さな小さなその声は、耳を澄ましていなければ聞き取れないほどでしたが、私にはきちんと届いていました。


「死にたいのですか」
「はぁ…本当に死にたかったらとうの昔にここから飛び降りとる。俺にはそんな勇気はないけぇの。煙草を吸うのはうまくいかん腹癒せとせめてもの抵抗。我ながら幼稚ぜよ」
「……」


仁王くんは目を細めて口の片端だけをあげて笑いました。自嘲の笑みともとれる横顔が悲しみに濡れていて、彼の真意を知らない私はかける言葉も見あたりません。
辛いのですか。苦しいのですか。何があなたをこんなにも追いつめているのでしょう。

その時、仁王くんの身体がふわりと浮いて私の視界から一瞬消え、気がついた時には彼は柵の向こう側に立っていました。足をかけているのは6階建て校舎の屋上の淵。もちろん落ちてしまえば人間なんてひとたまりもありません。


「仁王くん!?何を……!」


何をするおつもりですか!私は慌てて彼の肩を掴もうとしました。しかし簡単に避けられてしまい、私の手は虚しく空を切るばかりで届きません。


「何度も、」


私に背を向けたまま、仁王くんが言いました。
柵の内側ではただならぬ緊迫感が漂う中、向こう側にいる仁王くんは銀色の髪に橙の光を反射させ、きらきらと煌めく姿はどこかとても非現実的でした。まるでそこだけが世界と切り離されてしまったかのように、静かな輝きが冷たく彼を包みこんでいます。


「何度も、死にたくて、こうやって空に近い場所に来ちょるけど。あと一歩ちゅうところでいつも足がすくむ。思い残すことはもう何もないち思うのに、足を踏み出す瞬間に、どうしても頭を過ってしまうんよ」


――怖い、って。


ああ、何があなたをこんなにも追いつめているのでしょう。



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