守る気のない約束も全部、覚えているから


ナマエと別れたのは俺が年少に入ったからだった。とにかく当時10代だった俺は馬鹿みたいにナマエのことが好きで、暇さえあればナマエと引っ付いていたかったし実際そうしていた。あの頃の俺にとって唯一まともに息が出来る場所が兄かナマエの隣で、出会ってから俺が再び年少に入るまでのたった数ヶ月の付き合いだったが、俺にとってその数ヶ月の間はナマエが世界の全てだった。

そんな盲目的な恋をしていたのも今となっては昔の話だ。今ナマエがどこで何をしているのかも何も知らない。調べようと思えばいくらでも調べられるけれど、知りたくないと思う気持ちもあって。結婚してガキでもいると知った日には立ち直れる気がしない程度にはまだナマエのことを想っていた。しかし別れてから10年以上経っているんだからその可能性は濃厚だ。脳内で勝手に美化されているであろう思い出の中で控えめに笑うナマエはやっぱり可愛くて、俺以外の誰かのものになっている現実なんて知りたくもない。

俺が未だにナマエに対してこんなクソデカ感情を抱えていることは兄すら知らない、はずだった。

「……は?」
「あ、えっと…久しぶり」

兄と住んでいるタワマンの一室、朝目覚めてからいつものようにスーツに着替えてリビングに行くとナマエがいた。昔は愛らしい顔をしていたように記憶していたが、久しぶりに見たナマエはすっかり綺麗な大人の女になっていた。驚きすぎてまともに声も出せないまま、ナマエと向かい合って座っていた兄の方を見ると俺の視線に気付き、「ナマエ拾っちゃった」と言った。

語尾にハートマークでも付きそうな言い方で楽しそうに話す兄が、ナマエのことを拾ってきたと言った。拾ってきた?攫ってきたの間違いではないのだろうか。


兄が言うには夜中とも朝ともつかない時間、公園でワンカップの日本酒片手に飲んだくれている小綺麗な女がいたからどんな女かと思い声をかけるとそれがたまたまナマエだったらしい。そしてナマエが言うには会社で上司のミスを押し付けられて、同僚のミスを押し付けられて、部下のミスを押し付けられて、もう我慢ならん!と辞表を叩き出してきたところだったとのこと。どこかで見たドラマの中の話みたいだなと思った。

「いいじゃん、職ないならここで家政婦でもやりなよ」

住み込みで雇ってやるよ、と楽しそうに話す兄ちゃんも昔はそれはそれはナマエのことを気に入って可愛がっていたものだ。「住み込みはさすがにちょっと…」と引き気味だけど、勢いで退職して次の仕事が未だ決まっていないことに焦りを感じている部分もあるらしい。「次の仕事が見つかるまでなら」とナマエは兄ちゃんの無茶苦茶な提案に乗ってきた。そういえばこいつ昔からこういうところあんだよな…。いつもはふわふわしているくせにどっか度胸が良いというかなんというか。

いまだに展開についていけない俺は「…仕事行ってくる」とダイニングチェアから腰を上げた。早く1人になって考えたかった。何を考えるかって、俺がこれからどうするかってことをだ。

「あ、待って竜胆」
「…なに?」
「いってらっしゃい」

昔と同じように控えめに笑って手を振るナマエに、これまた昔と同じように心臓が奥の方で小さく音を立てた。






「おかえりなさい」
「……ただいま」

ナマエがうちに通って家政婦の真似事をするようになってから早くも1週間が経過した。兄ちゃんは今日は遅くなるというから、この日初めてナマエの待つ部屋に1人で帰宅した。

「ご飯できてるよ」

それとも先にお風呂する?と小首を傾げるナマエに「じゃあ飯」なんてまるで新婚のような会話をするが、今の俺たちの間にあるのはそんな甘い関係ではなくただの雇用関係だ。しかしエプロン姿のナマエの「おかえりなさい」にどうしようもなくときめいてしまう自分がいるのも事実。くっそふざけんな、いちいち可愛いんだよ…!


今日の晩飯をテーブルに並べ終えたナマエが俺の前の椅子を引いて座り「ご飯食べながらでいいんだけど、ちょっといい?」と言った。俺は箸と茶碗を手に取り頷いた。
ナマエが作る飯は可もなく不可もなく、不味くもなければ特別美味いというわけでもない。至って普通。ちょっと薄味で俺的には少し物足りないと思うこともあったが、ナマエが作ったというだけでどの高級レストランの食事よりも美味しく感じてしまうぐらいには、俺は相変わらずナマエに未練たらたらである。

「あのね、ずーーーっと聞きたかったことがあるの」
「…なに?」
「わたしと竜胆っていつ別れたの?」
「…………は?」

危うく持っていた箸と掴んでいた味噌汁の豆腐を落としかけた。いつ別れたのって…そりゃそんなの俺が年少に入ったときに決まっていて、確かに別れ話はしていないけれど、それ以来縁は完全に切れていたんだから俺はそういう認識でいた。

「ねぇ、わたしたちっていつ別れたの?」

未だに聞いてくるナマエに「俺が年少入ったときだろ」と言えば「えぇー…」と不満げな声を上げた。

「竜胆はわたしと別れたかったの?」
「そっ、んなわけねぇだろ…」
「わたしは、竜胆と別れたつもりなんてなかったよ」
「は?」
「ずっと待ってたのに」
「は?」
「なのに竜胆全然会いに来てくれないし」

ちょっと待て、俺たち別れてなかったのかよ。待ってたってなんだよ。

「仕事は急にミスばっか押し付けられるようになるし、ワンカップの日本酒全然美味しくないし、そしたら蘭くんが迎えに来るし」

つらつらと溢れていくナマエの言葉に俺はまともな返事もできないまま、ただナマエのほとんど愚痴のような話を聞いていた。食べながらでいい、とは言われたものの食事なんて進むわけがない。

「ねぇ、竜胆聞いてる?」
「…聞いてる」

つまりナマエは俺のことが好きってこと?と半分冗談、半分本気…いや8割ぐらい本気で聞いてみれば、少しだけ頬を赤く染めたナマエがいつものように控えめに笑いながら「そういうこと」と言った。

箸と茶碗をテーブルに置いて、向かいに座るナマエの隣まで行きぎゅっと抱きしめた。

「そういうことはもっと早く言えよ…」
「だって竜胆が何してるかもどこにいるかも分からなかったんだもん」

それもそうだが、それに関しては一般人であるナマエに簡単に知られる方が大問題だ。

「竜胆のせいでわたしもうアラサーなんだけど」

「ちゃんと責任取ってね」と言って、腕の中で小さく笑ったナマエの腕が俺の背中に回された。

「…多分普通の生活はできねぇけど」
「住み込み家政婦するからいいよ。あ、でもひとつだけお願いがある」
「なに?」
「2人で暮らせる部屋がいいな」

新婚気分ぐらいは味わいたい、と少し恥ずかしそうに言ったナマエを再び力一杯抱きしめた。





「九井にナマエの話しただろ。飲んで酔っ払って」
「うーわ、全っっっ然覚えてねぇ」
「それ聞いてから大変だったんだぞー?ナマエの会社の上司に圧かけて辞めさせるように仕向けるの」
「そんなことだと思ったわ…」
「兄ちゃんに感謝しろよー?」
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