幸福のマニュアルについて
「うわあぁぁぁぁん!!!!」
ベランダで洗濯物を干しているときに聞こえてきた、けたたましい泣き声とドタドタというこちらに向かって走ってくる足音と共にやってきた小さな衝撃。わたしの膝下辺りにぎゅうっと抱き付いてグズグズと泣き続けている2歳の息子に「どうしたの?」と聞けば「パパがっ、パパがぁっ…」と泣きながら訴えてくるのでまたか…と小さく溜息を溢した。
洗濯物を干すのを中断して、最近ずっしりと重みが増した息子を抱きかかえてリビングに戻るとムスッとした顔のパパ、千冬くんがソファに座っていた。
「もう、今度は何言ったの?」
わたしの首にぎゅっと抱き付いて未だに鼻をスンスンと鳴らしている息子の背中を撫でてあやしながら聞くと、千冬くんは「ママはパパのだって言っただけ」と答えるからわたしの口からはまた溜息が溢れ出た。そんなことで2歳の息子と張り合わないでもらいたい。
「ほら、パパと仲直りしてあげて」
そう言って千冬くんの方へ息子を差し出すと、千冬くんに抱えられながらわたしの服を引っ張りまた泣きながら大暴れし出した。
「やだぁ!パパやだ!!ちーがーう!ママがいい!!」
「だから!ママは俺のだって言ってんだろ!」
「うわあぁぁぁぁん!!パパちがう!!!」
「もう!パパ!」
このやりとりももう何回目だろうか。今週だけでもう3回はやっている気がする。いい加減にしてほしい。これではいつまで経っても洗濯物が干し終わらない。本日3度目の溜息を吐いてテレビのリモコンを手に取り録画していたアニメに切り替える。
「あー!バイキンマン!!」
正義の味方より悪役派らしい息子の目が途端に輝き出す。テレビに釘付けになっている間に再びベランダに戻り、このアニメと某教育番組がなかったら我が家の家事は一切終わらないな…としみじみ思った。
洗濯物を干し終えてリビングに戻るとアニメに夢中になっている息子と、その息子を膝に乗せてテレビに目を向けたままぷにぷにの頬を弄り回しているパパがいた。絶妙に嫌そうな顔をしている息子が可笑しくて思わず2人を写真に収めていると、それに気付いた千冬くんが「洗濯終わった?」と聞いてきた。
「うん、お待たせ。買い物行こうか」
洗濯カゴを脱衣所に戻しながらそう言うと、「買い物行くって」と息子に声をかけおむつを替えて上着を着せてお出かけの準備をしてくれた。こういうところはしっかりしてるのになぁ、とつい苦笑いが溢れる。
◇
家族連れで賑わう週末のショッピングモールで、キッズスペースを見つけてすぐに走り出してしまった息子を慌てて追いかけようとすると、「俺行くよ」と言って千冬くんがすぐに追いかけてくれた。
「俺見とくから今のうちに買い物してきたら?」
「いいの?」
「いいよ、たまにはゆっくり買い物してきて」
「えー…助かる。ありがとう」
キッズスペースで既に靴を脱いで走り回る息子も、今ならわたしがいなくても平気そうだ。じゃあまた後で連絡するね、と言ってその場を離れようとすると、近くでお孫さんを見ていたらしいおばあちゃんが「よく出来た旦那さんね」と褒めてくれた。その言葉に少し恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに笑う千冬くんにたまらずキュンとしてしまう。何年経っても千冬くんの笑顔は可愛い。若くて可愛い自慢の旦那さんだ。
平日はわたしも仕事をしているし、千冬くんだって週末が毎週休みなわけではない。つまり今日はお互いの休みが被る貴重な週末だ。とっても貴重なひとり時間。いつもは息子を追いかけ回しながらのスーパーでのお買い物も今日は千冬くんのおかげでゆっくりできた。ひと通りの買い物を済ませて電話をかけると2人は今フードコートにいるらしい。
「えっご飯も食べさせてくれたの?」
「うん、つってもマックだけど」
「十分だよ!」
フードコートに向かうと、なんと既に2人は昼食を済ませたあとだった。マックとはいえ助かりすぎる。ナマエさん何食べたい?俺買ってくるよ、と言って立ち上がった千冬くんにうどんをお願いして息子の隣に座り「楽しかった?」と聞くと「うん!」と千冬くんそっくりの満面の笑みで返された。その笑顔に心臓がキュンっとなって「可愛い!」と思わず抱きしめた。息子はわたしの腕の中でキャッキャっと笑っている。男の子は小さい恋人だと良く聞くけど全く持ってその通りだと思う。外で抱きしめてもどれだけイチャイチャしても許される小さな彼氏だ。
「…またそういうことするじゃん」
息子と抱きしめ合って合法的イチャイチャを楽しんでいたら、さっきお願いしたうどんが乗ったトレーを持った千冬くんが朝と同じ拗ねた顔で戻ってきた。
「だってうちの子世界一可愛いんだもん」
「それは否定しないけど」
「うちの旦那さんも世界一可愛いけどね」
「可愛くはねぇから」
ムスッとした顔でわたしの前に座る千冬くんも、やっぱり世界一可愛いと思う。
◇
予想通り、帰りの車で寝てしまった息子をお昼寝用のマットの上に寝かせて布団をかける。寝顔は千冬くんよりわたしに似ているとよく言われる。自分の寝顔なんて見たことないから分からないけど。
「寝た?」
「うん、ぐっすり」
よっぽど遊び疲れたんだろう。しばらく起きてくることはなさそうだ。今のうちに夕飯の支度も終わらせようと立ち上がったわたしの腕を千冬くんが掴んで「それはあとで」と言ってぐいぐいと寝室へと引っ張っていった。ぼすん、とベッドに押し倒されて「まだ昼間なんですけど」と抗議すると「だって夜はまた邪魔されるじゃん」と言いながら千冬くんはわたしの服を脱がせ始めた。
「いつも目の前で独り占めされてんだから、たまには俺だって独り占めしたい」
「はいはい、わたしはパパのだよー」
「俺はナマエさんのパパじゃねぇけど」
「…千冬くん」
「うん」
「千冬くん、好き」
「俺も好き」
深く口付けながらお互いの身体を触り合って、気分が高まってきたそのとき、リビングから「ふぇっ」という声が聞こえてきて2人ともピタリと動きを止めた。どうやら思っていたより眠りが浅かったらしい。
「はぁ…まじかよ…」
わたしの上から退いて深いため息を吐く千冬くんに「続きは夜ね」と言って頬に軽く口付けた。
「今から公園連れて行って、夜中に絶対起きないぐらい疲れさせてくる…」
「じゃあ夕飯作ってお風呂沸かして待ってるね」
リビングに戻り千冬くんがまだ眠そうな息子を抱き上げて「パパと公園行くか」と声をかけると「やだぁ…パパちがう…ママぁ…」と目を擦りながらこちらへ腕を伸ばした。
「だーかーら、ママはパパのだから!」
「ひっ…すんっ、うっ、うわぁぁぁああん!!!」
「ねぇもういい加減にして!!」