死にかけの心がまだ好きだって言う


ガチャガチャと鍵が開く音がして、わたしはすぐに玄関へと向かった。

「松野さん、おかえりなさい」

わたしの顔を見てふっ、と力なく笑った松野さんが全体重をかけるようにして凭れかかってきたから「ちょ、重い!重いです…!」とその背中を叩くと「んー…」と言いながらわたしをぎゅうっと抱きしめた。恐る恐るこちらからも背中に腕を回して抱きしめ返すとわたしの肩に頭を乗せた松野さんが「ナマエ、ただいま」と小さな声で囁くように言った。

「松野さん」
「千冬」
「…千冬、くん」
「うん」
「お疲れ様です」
「……うん」

もう一度「おかえりない」と言ってサラサラの黒髪を梳かすように撫でると、松野さん…千冬くんはまるで猫みたいに擦り寄ってきた。どうやら今日は相当お疲れらしい。




どこにでもいる大学生のわたしと千冬くんが出会ったのは今から1年程前。見るからにやばそうな男に絡まれていた、というかナンパを断った腹いせに路地裏に連れ込まれて既に数回殴られていたわたしを助けてくれたのが千冬くんだった。まるで映画か漫画のワンシーンのような出会いではあったが、わたしに絡んでいた男が千冬くんを見るなり顔を真っ青にして「ま、松野さん…!すいません…!!」と言って走って逃げて行ったから、一瞬でこの人はもっとやばい人なんだと理解した。もちろん人間性だとかそういうことではなく、立場的な意味で。

「立てるか?」
「はい…あの、ありがとうございます…」
「…いや、悪い」

腫れ上がったわたしの頬を見て申し訳なさそうに謝った男性は恐らく先ほど逃げた男の上司、のような立場の人なんだろう。

「病院まで送って行く」そう言ってタクシーに乗せられて、治療費も払って帰りのタクシー代までくれた。もうこれきり会うことはないだろう、そう思って病院を出る前にもう一度深く頭を下げて「ありがとうございました」とお礼を言うと「…さっきの奴がもしまた何かしてきたらすぐ俺に連絡して」と言って連絡先と住所が書かれたメモを渡された。丁寧な字で書かれた松野千冬、という文字と数字の羅列に目を通して「分かりました」と答えタクシーに乗り込もうとしたわたしの手を掴んで「ごめん、やっぱり心配だから連絡先教えて」と言われ、なぜかわたしは明らかに一般人ではない年上の男性と連絡先を交換することになってしまったのだ。

そのときのわたしはまさかこの明らかに一般人ではない男性の家に入り浸るような仲になるなんて夢にも思っていなかったのだが、千冬くんの隣はなぜかとても居心地が良くて、まるでずっと昔から一緒に過ごしてきたかのように錯覚するほどだった。



千冬くんに合鍵を渡されて自由に出入りすることができるこの部屋は、恐らく彼の本当の住居ではない。1LDKの部屋には必要最低限の荷物しか置かれておらず、なんなら最近はわたしの荷物の方が増えてきている。それでも千冬くんはここ最近ほとんど毎日この部屋に帰ってきて、わたしの顔を見ると心底安心したように柔らかく、そして泣きそうな顔で笑った。


「ご飯食べますか?」
「今日なに?」
「肉じゃがです」

「明日は残りでコロッケにしますね」と言うと「主婦かよ」って目を細めて笑う千冬くんの笑い方が好きだ。



お風呂上がりの千冬くんが「こっち来て」と手招きしたからそのまま腕の中に飛び込むと、ぎゅっと抱き締められた。

「ナマエ抱き締めてるとすげぇホッとする」
「うん…わたしも」

わたしの頬を包み込むようにして両手を添えた千冬くんと、目が合った。ゆっくりと目を閉じると優しい口付けを贈られる。

成人した男女がほとんど同棲のような生活をしていれば、身体の関係を持つようになるのも時間の問題だった。しかしわたしたちが付き合っているかと聞かれれば答えはNOだ。千冬くんはわたしとの関係を明確にさせるつもりはないらしいし、わたしもそれについて何も聞かなかった。千冬くんがわたしのことをどう思っているのか知りたくないといえば嘘になるけれど、でも「わたしたちの関係って何ですか?」なんて聞くことはできなかった。

わたしが作った特別美味しいわけでもないご飯を「美味い」って言って食べてくれるところも、目を細めて笑うところも、たまに猫みたいに甘えてくるところも、好き。

でもわたしたちが今以上の関係になることはきっとない。だってわたしはただの女子大生で、千冬くんは一般人じゃないから。だからこの部屋で千冬くんが帰ってくるのを待って、泣きそうな顔をして笑う彼を抱きしめて、たまに身体を重ねるだけの関係で良いんだと自分に言い聞かせていた。



千冬くんの腕の中で目覚めて、枕元に放置されていたスマホを見るとまだ4時だった。夜中よりは朝に近い時間ではあるものの、まだ窓の外は暗い。千冬くんを起こしてしまわないようにそっとベッドを抜け出してリビングに置かれたソファに身を預けた。

「ふう…」

いつまでこうしているんだろう。わたしはいつまでこの部屋で生活するんだろう。いつか…この生活に終わりは来るんだろうか。1人でぼーっとしながらそんなことを考えていたときだった。

「ナマエ」

いつの間にかソファのすぐ後ろに立っていた千冬くんに名前を呼ばれ、ビクッと肩を揺らしてしまった。

「何してんの」
「えっと、なんか目覚めちゃって…」
「勝手にいなくなんのやめて」
「…勝手に帰ったりはしませんよ?」

ここ以外にも帰る家はあるけど、この人を置いて勝手に帰るようなことはしたことはないしする気もないのに。まるで小さい子どもが母親に縋り付くようにわたしを抱きしめる千冬くんの背中をできるだけ優しく撫でた。

「…ナマエ、」
「はい」
「1回だけしか言わないからよく聞いて」
「なに…?」

「結婚しよ」

「全部捨てて俺のとこ来て」

驚き過ぎて何も言えないわたし左手の薬指に、千冬くんがシルバーの指輪をはめた。

「いつか全部終わったらさ、2人で静かに暮らそう」
「千冬くん、」
「うん」
「千冬くん好き」

わたしはこのとき初めて、千冬くんへの気持ちを口にした。今が絶対わたしの人生で1番幸せな瞬間だって思った。

多分千冬くんの言ういつかは来なくて、もしかしたらもうすぐ会えなくなるのかもしれない。だって千冬くんはそういう人だから。きっといなくなるときは猫みたいにどこかへ行ってしまうんだろう。

それでもどうか今だけは、泣きそうな顔で笑うこの人と愛し合うことを許してほしい。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -