短い話 | ナノ
バイトが終わって、雨のなか車を運転していると人影を見つけた。傘も差してなくて、濡れているその人は、俺の知っている人で。その傍に車を止め、窓を開ければそいつはゆっくりとこっちを向く。

「あれ、佐藤くんだ」
「あれじゃねぇよ。何やってんだ」

苗字は、ふにゃりと笑って雨に濡れたい気分で、と言った。さっさと乗れよ、とたまたまあったタオルを投げつけると、ありがとうとまた笑って車に乗る苗字。まあ、何度か送ったことあるし、家は知っている。
静かな車の中に、雨の音だけが響く。そんな時に突然私ね、と間延びした苗字の声が俺の耳に届いた。

「好きな人いるんだけどね…」

俺の心が軋んだ気がして、でもそれ以上に苗字の声が凄く寂しそうだ。俺は何も言わず。…何も言えず、たばこに火をつける。灰色の煙が消えていく。

「でもさ、その人には彼女がいて、さ」

だんだん語尾が小さくなっていって、小さな体ももっと小さく鳴る。
俺の心が、苗字の心が軋む音は大きくなる。

「でも、好きなんだろ」
「好きだよ。…だけど、」


「苦しいよ、佐藤くん…っ」


悲しそうで、今にでも泣きそうな苗字の声を聞いて、車を端に止めた。
気がついたら、苗字を抱きしめている俺がいて。俺の腕の中で泣いている苗字がいて。

俺の心も泣いていた。


ガラガラと崩れ落ちる

佐藤くんみたいな人を好きになってればよかった。そう言った苗字の声が今にも消えてしまいそうで。もっと強く抱き締めれば、俺のシャツを掴む力が強くなる。じゃあ、俺を好きになれよ。そう言おうと思っても、喉をつっかえて何も言えなくなった。


0616