価値観




 ジムに来ないかその言葉の意味を飲み込むのに、時間がかかった。

 トウカジムの食堂で、多くのジムトレーナーたちに囲まれる中、俺の親父・センリはそんなことを口走っていた。

 
「は……? 急になんだよ……」

「あぁ、いきなりで驚かせてしまったな。本当は、ジムの様子なんかを見てもらってから話そうと思ってたんだが


 段階を踏もうとした的なことを言ってはいるが、多分見学が先だったとしても、俺の驚き具合は変わらなかっただろう。

 ジムへの入門。それは無知な俺でも、簡単な話じゃないってことぐらいわかる。ホウエンに全部で八つあるポケモンジムは、バトルで生計を立てるプロの養成所。将来有望と認められた人間だけが、ジムリーダーを始めとする多くの専門家たちの世話になれる。当然、入門希望者の数は多く、ハードルは高い。

 そんな場所に『俺』を招こうって……そう言ったのかこの人は……?


「ちょっ……と、待て……なんだって、そんな……」

「前から考えてはいたんだ。トウカジムは多くのトレーナーの可能性を“開く”場所。きっとお前も気にいると思う

「違う違う! そうじゃなくって……!」


 親父が歩み寄るのを、俺は一歩引いて避けてしまう。この人が何を言っているのか、俺にはわからなかった。


「ジム入りなんて……聞いてねえよ。俺は……アンタに届け物があるからって来ただけで……一晩世話になって、明日には帰るつもり……だったんだぞ……? それをいきなり……」

「戸惑う気持ちはわかるが、これはチャンスなんだ。お前が、失った時間を取り戻すチャンスなんだよ」

「失った……時間…………?」


 何を言ってるんだ……この人は……?

 『失った時間』……? アンタがいなかった間の……アレを……なんだって……?


「不安はあると思う。突然こんなこと言われて、困ってるかもしれない。でも、お前が望むなら


 親父は一歩、さらにこちらへと踏み込む。

 まるで憐れむように、励ますように……優しげな声色から伝わってくるのは、俺への施しと謝礼、『何かやってやりたい』という、親心的な何か……。

 不安? 当然あるよ。突然? そりゃいきなりもいいところだ。こんな大人数に囲まれて、親子の愛情を見せびらかされちゃ困るに決まってんだろ。

 でも……それよりも、俺は……俺が許せないのは……!


「大きなお世話だ」


 俺は、拒絶をはっきりと突きつけた。


「何を言い出すかと思えば……ハハ、冗談キツいって……俺が、ジムトレーナー? 何のために?」


 沸々と湧いてくる“何か”それに突き動かされて、つい口が動く。


「親父は……俺がやりたかったことを知ってるって……そう言いたいのか? 長い間、母さんを放っておいて……俺に……顔すら見せないで……?」


 動いた口端が呆れで歪む。緊張が肩を震わせて、怒りが喉奥から這い出て来る

 
親父(アンタ)が夢追ってる間……俺と母さんがどんな目に遭ってたかなんて知らないんだろ? 知ってたらそんな口……きけねぇよな……?」


 頭の芯がチリチリと焦げるような感覚に、目の奥が熱くなるのを感じた。足がきちんと体を支えているのかもわからないほど……平衡感覚は失われていった。

 その俺に、親父は歩み寄る


「ユウキ……私はただ


 言い訳をしようとする口元を見て、堰き止めていたものが、壊れた。


「自分のしたいことの為に出ていっておいて、今更父親面すんなよッ!!!」


 しん……と静まり返る食堂。

 力一杯叫んだ言葉を省みるなんてことは……できなかった。

 俺は今、何を自分でも状況がよくわからないまま、しらけさせた空気の重さだけを感じていた。

 何分経ったか……いや、そう感じるだけで、実際は何秒も経っていないだろうそんな静寂を経て、俺の背中からひとつ、声が上がった。


「それがどーした……?」


 冷たくぶつかった言葉に、俺は思わず振り返った。

 そこにいたのは若草色の髪色をした少年俺と同い年くらいのやつだった。同じジャージを着ているそいつは、前の人間を押し除けて、ズイッと俺の前に身を晒す。


「なん……だよ……!」

「だから、『それがどうした?』って訊いてんだよ。耳、遠いのか?」

「どうしたって……だから何が

「『家族犠牲にしてジムリーダーやってる』それの何がいけねえんだ!!!」


 険しい顔のそいつの怒気に、俺は身を強張らせる。なんだコイツ……!?


「ヒデキくん、落ち着いてくれ

「いや、言わせてもらいますよ師範。息子だかなんだか知らねえけど、そんだけでアンタにナメた口きいていい理由にはならねぇはずだ!」


 親父の制止すら聞かず、ヒデキと呼ばれたそいつは、さらに俺に詰め寄った。その目には、明らかな“敵意”がこもっていた。


「おらどうした……俺は質問してんだぜ? 親父さんがひとりでジムリになろうと頑張ってた。そいつをてめーは否定した何がいけねぇ?」

「なん……だよお前……! 俺は……なんか間違ったこと言ってるってのか!? 親父は……あいつは俺と母さんがどんだけ苦労したか知ってて、それでも帰ってこなかったんだぞ!? それを責めるのは……間違ってんのかよ!?」

「あぁ間違ってるね! そんな事でウチのリーダーがやいやい言われる筋合いはねぇ!!!」

「なっそんな事……!?」


 ヒデキは……俺たちが辛い目に遭ったことを『そんな事』と言って一蹴。それが俺の地雷だってわかってて


「前にどこにいたのか知らねえけど、ホウエン(ここ)でそんなこと言う馬鹿、見た事ねぇぜ! 大体プロトレーナーの大半の家庭ってのは、現役の間は職業にどっぷり浸かるもんだろうがっ! 家族はそいつに理解を示すのがスジってもんだろッ!」

「ふざけ……! お前なんなんだよ!! いきなり出てきて、人ん家の事情に首突っ込んでんじゃねぇよ!!!」

「そっちこそ、プロの事情に踏み込むんじゃねぇよ!!!」


 プロの事情。それは家庭よりも重く見るのがセオリーだと……そいつは俺の胸ぐらを掴んでから、続けた。


「ここはプロになりてぇって本気でやってる奴の溜まり場だ! そんな俺らに向き合い続けてきたのがてめーの親父さんだ! 昼も夜も、俺らが『強くなりてぇ!』って気持ち汲んで、休む間惜しんで稽古つけてくれてんだよ! 俺らヒヨッコが、いつかプロで活躍して、ホウエン中を賑やかしてくれるって信じてな!!!」

「だから……だからなんだよ……! バトルで金稼ぐような野蛮な連中のために、俺ら家族が犠牲なれってのか? ホウエンに貢献してるから、嫁や子供は蔑ろにしていいってのか!?」

「てめーホントにセンリさんの子供かよ!!! 父親が仕事してんの邪魔する家族なんか、家族じゃねぇ!!!」

「…………ッ!!!」


 言い切られた。そんな理屈もへったくれもない理不尽を。

 家族がプロだから、ジムリーダーだから……当たり前のように、支えるべきだって……そう言われて俺は


「お……!?」


 俺の顔を見ていたヒデキは、ギョッとする。俺が……泣いてたからだ。

 堪えきれなくなったものが、涙と……言葉になって流れ出た。


「………『帰ってくる』って……言ってたんだ……」


 帰ってくる親父は、確かに“あの日”……そう言ってた。


「立派なジムリーダーになって、いつか迎えに来るって……親父はそう、俺たちに約束して……出ていった……ッ!」


 俺も……きっと母さんも、寂しかったはずだ。だから……そうやって言われたら、その言葉に縋るしかない。

 帰ってくるって言ってたから……せめてその日までは耐えようって……。

 でも、親父が連絡を寄越した頃、俺も母さんもボロボロだった。ホウエンに呼んではもらえたけど……だけど……!


「納得しようとしてたよ、俺だって……! 親父はスゲェ仕事してんだから、水差さないようにって……繋ごうとしてたさ……俺だって……!!!」


 いっそ切ってしまった方が楽かも何度そう思ったかわからない。もう振り回されるのはゴメンだって、投げ捨ててしまいたい気持ちに駆られたのは、一度や二度じゃない。

 それでも、家族だからと思って……たのに………!


「夢見るのが好きな連中にはわかんねぇよ……! 見えないところで泣いてる俺らのことなんか……」


 そうだ。わかるはずない。

 未来なんて曖昧なものに夢中なお前らには


「何も知らない……トレーナー(おまえら)……なんかに…………ッ!!!」


 憎々しく、歯を食いしばった俺は、掴まれた手を弾いて、食堂を飛び出した。


「ユウ!」


 背中で誰かが呼び止めるような声がした気がする。でも俺は振り返ることなく、廊下を全力で駆けた。

 何人かとぶつかりながら、時々怒号を飛ばされながら……それでも俺は走るのをやめない。

 酷く乱れた気持ちが、目から溢れる。必死に拭って止めようとしても、器から溢れたものはもうどうしようもなかった。

 俺は……ただ逃げるしか……できなかった。





 親父はプロトレーナーだった。ジョウトリーグではそこそこ名の通ったトレーナーだってことは、俺が少し大きくなってから知った話で……ヒーローみたいな存在だったと聞かされた。

 朧げにあるのは、親父がスタジアムで脚光を浴びる姿。色んなポケモンを繰り出して戦う様子に、俺も鼻息を荒くしていたのを覚えている。

 あの頃はまだ、親父のこともトレーナーのことも、バトルのことだって好きだった。よくバトルに見立てて、ぬいぐるみでごっこ遊びをしていたって、母さんは言ってた。

 ある日突然、親父がジムリーダーになるって……言い出すまでは……。


お父さんはね、ユウキが自慢できるような人になるために、今がんばってるの。応援してあげてね。


 母さんがそう言うから、俺も我慢するしかなかった。一方的にお願いされてしまったことへの理不尽さを抱きつつ、それでも母さんや親父の気持ちもわかるから……そのお願いに従った。

 別に不仲になってバラバラになったわけじゃない。親父にだってやりたいことがある。誰かが言ってた……いくつになっても『夢』を追い続ける人は、魅力的だ……って。

 俺は自分に言い聞かせた。『なんで?』って思っちゃいけないって。周りが納得してるんだから、そこに水を差しちゃいけないんだって……子供ながらになんとなく、わかってたから。

 俺が何を言っても、わがままにしかならない。寂しいって喚いても困るのは母さんで……俺に気を遣うように笑う母さんを見るのは、嫌だった。

 母さんは俺が寂しくならないように、今まで以上に明るく振る舞っていたと思う。今思うと、あれで母さんも参ってたんだろう。自分も辛い中、俺を育てるので必死だったんだと思う。

 よく散歩に連れてってくれた。あの日も……そんな晴れた日の散歩だった。

 街道の街路樹が立ち並び、木漏れ日がキラキラと光っていた。俺の手を引く母さんは、鼻歌混じりに歩いていく。

 穏やかな時間だった。俺はその時間が好きだった。その時だけは、親父がいない寂しさを忘れられた気がした。

 だけど


ドドドドドドドッ!!!


 強烈に響く音で、俺は目を覚ました。

 ここはトウカジムの一室。親父が用意してくれた、一晩世話になる個室だ。明かりはついておらず、月明かりだけが部屋の姿を照らしていた。

 俺は今……その部屋の二段ベッド下段で、横になっているみたいだ。


(………夢……か…? くそ……またなんで、こんな……!)


 久しぶりに見た昔の夢に悪態をつきながら、気怠い体を起こす。不用意なもんで、そのままベッドの天井に頭をぶつけて悶絶。すると


ドドドド! ドドドド!


 部屋の入り口から、誰かがドアを叩く音がした。これは……さっき目が覚めた時の……?


「…………鍵、閉めたのか」


 自分がパニクって部屋に飛び込んだところは覚えているが、それ以外の記憶が曖昧だ。ドアレバーについた鍵のつまみが横向きになっているのを見て、多分そうなのだろうと推理する。

 ドアを叩いてる人物からの声はない。誰だろうと思うが、正直誰であっても会いたくはないな。

 しかし、ここは他人の部屋。俺のわがままで独占するわけにもいかない……か。


「………今、開けるよ」


 俺は扉の前に出向き、鍵を開ける。レバーを下げて、ゆっくりとドアを開けると……。


「ユウキくん! 大丈夫……?」


 そこにいたのは、ハルカだった……。


「ごめん……鍵かけたまま、寝てた」

「あ、ううん、大丈夫。私も今来たとこだから……」

「………入れよ」


 俺はハルカを部屋に入れた。こいつも同室で夜を明かすんだから当然なんだけど……ちょっと前にここでひっくり返ったのが、嘘みたいだ。

 ハルカは木製机の前に置かれた椅子に座り、俺はもう一度ベッドに腰掛ける。電気をつける気には……なれなかった。


「大丈夫……?」


 重苦しい空気の中、ハルカが訊いてきた。俺はその目を、見る事なく答える。


「そう見えるか……?」

「ごめん、そうだよね……」


 尋ねられた気まずさで、俺はついぶっきらぼうな態度をとってしまう。ハルカは悪くないってのに、当たってどうすんだって話だ……。


「ダッセェとこみられたな……」

「そんなことないよ……」

「ダセェだろ。未だに親父のこととか……整理つけられてないんだ……俺……」


 言い換えるなら、まだ昔のことにこだわってる。ねちっこく、大人気なく……。


「もう十年経つってのに……慣れたと思ってたんだけどな。でも、どうやら俺は……まだ親父を許せてないらしい」

「何が……あったの……?」

「前に言ったろ。もう何年も帰ってきてない。家の敷居を跨ごうとしないんだ。親父は……」

「それって……ジムリーダーになっちゃった……から……?」

「………正確には、『なろうとしたから』だろうな」


 親父がどうしてその道を進み始めたのかはわからない。何日も船を乗り継いで辿り着くホウエンは、俺には遠すぎて実感できなかった。そんな場所に行ったきり帰ってこない親父に、不信感と不満は溜まる一方だった。


「始めは……ただ寂しかったってだけ。でも不思議なもんで、時間が経つと気にしない時間も増えてったよ。母さんは親父のことを応援してたし、俺も俺でそうしてあげたいとは思ってたから……でも、誤魔化しきれないものはあったと……思う」

「おばさんとの二人暮らしって、大変だった……?」

「…………まぁ、な」


 俺の口ぶりから何かを察したハルカは、恐る恐るそう訊いてきた。何を想像したのかはわからないが、嫌な予感でもしたんだろう。ニュアンスは、多分合ってるよ。


「きっかけは俺だ。親父が旅に出て一年くらいした後……交通事故に遭った」


 それを言った途端、ハルカの顔色が変わった。心配そうに細めていた目が開くのが見えて、俺の口はやや重くなる。


「……母さんと散歩中、俺は道路に飛び出したらしい。それでポケモンが引いてた荷車とぶつかって

「だ、大丈夫だったの!?」

「大丈夫じゃなきゃ、今お前と話してねぇだろ。傷は残っちゃったけど、他に後遺症とかもなく……普通に全快したよ」


 慌てるハルカに説明を追加して、なんとか落ち着いてもらった。そりゃいきなり事故だなんて言ったら、びっくりするわな。

 まぁ、本題はここからなんだが……。


「だけど……その事故のせいで、荷車も横転しちゃってさ。子供が乗ってたらしいんだけど、そっちも大怪我で……」

「そんな……その人たち、どうなったの?」

「わかんない。だけど、その事故は母さんが子供から目を離したから起きたってことになって……周りからは責められたよ」

「……………!」


 さっきよりも大きな動揺が、ハルカに走る。そう、お前が想像した通り……母さんとの生活が辛くなったのは、その後だ……。


「『自分の子供の面倒くらいちゃんと見ろ』心無い近所の連中に、俺も母さんも何も言えなかった。事故のショックで前後の記憶がほとんどなくて……俺は擁護一つできなかった」

「仕方ないよ……すごい事故だったんでしょ? ユウキくんが生きてくれてたってだけで、おばさんは救われたと思うよ……?」

「………いっそ死んでた方が、同情もされてんじゃねぇかな」


 俺がそう言った時、ハルカの顔は悲しい表情を浮かべた。こっちが心配になるくらい、深い感じの……冗談だよ、マジになんなって。


「だから、責任といえば俺にある。母さんが責められるようになったのも、勝手に動き回ったせいだからな」

「起きちゃったことだもん……ユウキくんのせいってわけじゃ

「いや俺のせいだ。アレは俺のせいでいい……だけど……」


 例え俺に(とが)があったとしても……どうしても割り切れないことがある。


「親父は……それでも帰ってこなかった。俺が事故しようと、母さんが大変な目に遭ってようと……何度連絡しても、親父は帰ってこなかったんだ……」


 親父が並々ならない決意で旅立ったのはわかってる。でも、それだと約束が違う……。


「親父は言ってたんだ。旅に出る前の船着場で……『お前たちがピンチになったら、必ず駆けつける。いつか帰ってくるからそれまでは』そう言った、はずなんだ……!」


 それだけは、やけに鮮明に覚えている。記憶違いじゃないってはっきり言えてしまうほど、俺には強く残っていた。

 なのに……なのに親父は……!


「母さん、それでもしばらくは頑張ったんだ。俺が入院してる間も、その後も……何にも気にしてないって顔で笑ってた。関係ない奴らが陰口叩いてても知らない顔して……でも、それだって痩せ我慢だったんだ……!」


 俺はそれを知っている。いつのことだったかは忘れたけど、確かに母さんは……泣いてたんだ。


お願い……帰ってきて……私…もう……!


「後にも先にも、その一回だけ……母さんが泣きながらそう言ってた……」

「それでも、おじさんは帰ってこなかった……」

「信じられるか? 自分の嫁が泣いて縋ったんだぞ……!? それでも仕事を優先したんだ……さっきアイツが言ったみたいにな……!」


父親が仕事してんの邪魔する家族なんか、家族じゃねぇ!!!


 結局、そっちが世間の一般常識なんだ。

 家庭事情よりもプロとしての活動が優先されるのが、この社会の通念なんだよ。それが、今日身に沁みてわかった。


「……俺も散々言われてきたよ。『早く怪我治して、お父さんみたいな立派なトレーナーを目指しなさい』ってな。どういう神経してるか知らねーけど、あんな家族を蔑ろにする奴と同じになれって……ニコニコしながら言ってくるんだよ。それで母さんは擦り切れて……精神科行くくらいには参ってたよ」

「ごめん、ちょっと信じられないや。あのおばさんがそこまで……」

「その点は、ある意味親父のおかげだけどな。『ホウエンに来ないか』って誘われてからは、どんどん元気になってったよ。こっち来てからは……ほら、お前んとこのお母さんが話し相手になってくれたし……」


 それに、ここにはもう母さんを虐める奴らはいない。だから、もう過去は水に流そうと思った。少なくともこっちに来てからの俺たちは、今までになく充実してたから。文句を言っても今更だから自分の気持ちに蓋をするしかなかった。


「でも……やっぱダメだったわ。最初は上手く話せてた手応えもあったけど、本当は、親父に『息子』って言われるだけで拒絶反応が出るんだ。それなのに……あの人は俺の気持ちを勝手に決めつけて、あろうことかジム入りさせようって……」

「…………つらかったね」


 ハルカの優しい言葉も、心を刺激してくる。傷に塩が塗り込まれるような感覚で……こんな事は言えないけど、今は同情すら痛々しく感じてしまう。


「ハルカは……プロなんだろ? お前もやっぱ、あいつらとおんなじ考えか? 『仕事は家族よりも優先させられるべきだ』そう思うのかよ……?」


 こんな質問をして何になる僅かに生きてる冷静な俺が、自分の言動を冷たく見ていた。こんなことを訊くのも、ただの現実逃避。ハルカならワンチャン優しくしてくれるかもっていう……卑しい期待をしてる証拠だ。慰めてくれるのを期待した自分が……酷く気持ち悪く感じる。

 でも、俺の予想とは裏腹に……ハルカは笑ってた。


「やっぱり……ユウキくんは優しいね」

「え、はっ!? な、なんだよいきなり……つぅか意味わかんねぇ!」

「だってその質問……要は『知りたい』ってことでしょ? 自分を苦しめてきたお父さんのこと、理解しようとしなきゃ出てこないセリフだよ」


 そう言われても、俺にはピンとこなかった。だってこんな質問ひとつでそうと言い切れる根拠がない。


「俺は……ただ親父を否定したかっただけだ! だから

「否定したいなら、わざわざ人に意見を求める必要ないもん。私に同調して欲しいだけなら、もっと誇張したっていいでしょ? 『親父は母さんを泣かせる最低野郎だっ!』ってね。でもユウキくんは、そうはしなかった」


 ハルカが何を言わんとしているのか、俺にはわからなかった。まるで俺には見えていないものが、こいつには見えてるような……そんな気にさせる口ぶりだった。


「言葉を選んで、おじさんと衝突しないように気をつけて……理解できないことを知ろうとしてた。ユウキくんはそういう人なんだよ」

「買い被りすぎだ。俺は……」

「私は知ってるよ。このひと月、ユウキくんがどんな人なのか……側で見てきたもん」


 そう言って、ハルカは立ち上がった。

 俺のそばに近づいてきて、何故か俺の胸に手を当てる。あまりにも自然な所作は、俺に身動きひとつさせなかった。


「もし、きみの胸に“火”がついたなら……」


 ハルカは笑っていた。

 月光に照らされた笑顔に息を呑む。

 彼女は……こう続けた。



ジム入り、OKしてみない……?



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