108の兄の心得

 広い、とても広い背中だ。
 吸い寄せられるように、ふらふらと、あんずはぴっとりそこに張りつく。

「すうう……ふわああ……」
「……嬢ちゃん?」
「すり……すり……」
「……お〜い、嬢ちゃん?」

 服越しに、ほのかにあたたかい。あじわうように息を吸い込むと、ちょっとだけ汗の匂いがした。
 それがどうにも、飲んだことも無いお酒に酔わされるような、陶然とする香りだったので、あんずは満足するまでたくさん深呼吸をした。とくとく、血潮が流れる音が聞こえる。お母さんのおなかの中にいたとき、ずっと聞こえていた音。
 あたたかいと、まぶたが重たくて、緩やかに落ちていく。なにか聞こえる気がしたけれど、眠りの闇の前に、ほかのすべてがぼやけて消える。
 あたたかいものを、離れないようにぎゅっと抱え直して。それからあんずは、身体の強ばった筋肉をゆるゆると弛緩させていった。眠りに落ちていった。

「……はぁ」

 自分が、何を抱きしめているのかも考えられないまま。

――――――

「大変申し訳ございませんでした」

 平謝りである。
 今やESのアイドルたちを束ねているといっても過言ではない、現役高校生にして激務をこなす敏腕プロデューサーとの呼び声も高い、スーツ姿の女の子が。鍛え上げた肉体と器の大きさから、多くの人に頼りにされている、強豪紅月の偉丈夫に。
 休憩室のソファの上で正座をして、深く深く、地に付くほどに、頭を下げていた。なお紅郎の名誉のために付け加えると、すべてあんずが自発的に行っている。紅郎の方はというと、特に怒ってもいなかった。なんとも言えない顔で、ただあんずのまるい後頭部を見ていた。

「いや、いいって。嬢ちゃんまた何日も寝られてねえんだろ?男にそうぺこぺこするもんじゃねえよ」
「いえ……先輩に抱きついたまま、寝落ちなんて……しかも、ESの中で……配慮も健康管理も足りてなかったわたしの落ち度です。大いに猛省します」
「そこまでのことじゃねえって。驚きはしたが、嬢ちゃんが休めたなら俺のデカい体もちったぁ役に立ったってことだろ? 誇らしいくらいだぜ」

 だから謝んのはもうやめだ、と肩を叩いて促し、しぶしぶといった様子のあんずの正座を解かせる紅郎は、「ただなあ」と少し眉を顰めた。
 もとの目つきのせいで、子どもが泣きそうなビジュアルになった。

「この休憩室、あんまり使われてねえのに、こんなとこで男に抱きついたりすんのは感心しねえよ。俺だったからよかったものの、もし襲われでもしたら一大事だぞ」

 二人がいる間、ほかの利用者は誰も訪れなかった。だからこそあんずを寝かせてやれたのだが、逆に言えばそれは、救助を望めない環境ということでもある。
 妹みたいな後輩だ。本当の妹じゃなくても、小言を煙たがられようと、”もしも”なんて絶対に訪れないようにしてやりたい。
 そんな紅郎の兄心から出た忠言に、あんずは顔を俯けた。ちくりと心は痛むが、反省しているならよし。ゆっくり話を聞いてやって、今日のところは早めに帰るよう促して――などと、紅郎が考えていると。

「鬼龍先輩だから、なので」
「ん?」
「他の人に抱きついたり、しない、です。鬼龍先輩にしか、しません」

 相変わらず俯いているけれど、その視線はうろうろと泳いでいて。手を、白くなるほど握って、唇を一文字に閉めて。照れている?

「今日は、その、早く寝ます! わたし、もう行くのでっ」

わたわたと(正座で足が痺れたようだ)ソファを降りて、パンプスを履いて、あんずは少しふらつきながら休憩室を出ていった。かんこん、がこんっ! と廊下から激しい物音が聞こえたので、転んだかもしれなかった。
 妹……なのか?

――――――

「む、鬼龍、ここにいたのか。……なぜ休憩室で坐禅を?」
「雑念を、ちょっとな」

 敬人が度し難そうな顔をする。
 紅郎もまた、度し難かった。

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