恐れよ、その獣の名は
入るべきではないところに入ってしまった、とスバルは固まった。たとえば、高級なレストランのバックヤードだとか、会員制のラウンジだとか、そういう暴いてはいけない、隠されたところ。
女の人は、ストッキングに包まれた脚をしどけなく投げ出して、やわらかな休憩室のソファに、深く深く沈みこんでいた。黒いタイトスカートの丈は正常で清潔で、半袖のカッターシャツの白さは心地よく爽やかだ。
そんなきっちりとした格好の女性が、全身だらりと力を抜いて、どこか虚ろげな目をして、身体をソファに預けている。柔らかそうな二の腕の白い肉に視線が吸い寄せられる。
無意識に、自分の口腔に溜まった生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。謝って、急いで出ていくのがきっと最適解だ。なのに、目も、足も、スバル自身の意思に反して微動だにしない。
意思ではなく、理性。ならば、スバルをそうさせているのは、本能だ。野生の獣だったころの名残が、動悸を急かす。喉が渇く。腹が減る。獲物がここにいるという。
彼女の弱々しいまなざしが、こちらを向いた。甘そうな薄紅い唇が、誘うよう
にほんの少しだけ開いて。
「……スバルくん?」
それは、よく知る女の子の声だった。
「スバルくん、どうしたの? 大丈夫?」
「……えっ? あ、ごめん。ぼんやりしてた」
それは少しだけ嘘で、ほんとうは聞き間違えたと思ったのだった。知らない女の人が、大好きな女の子の声で話しかけてきたから。彼女を探してここまで来た自分の、幻聴みたいなものだと。
「そう、ならよかった」
あんずは少し身を起こして、ソファに浅く座り直した。そうしていると、スーツで多少大人っぽく見えるとはいえ、見間違いようもなく彼女はあんずだった。スバルは、いつの間にか自分の身体のこわばりが失せているのに気づき、内心でちょっと安堵する。
「へへ、あんず……あんずあんずあんず!」
「わっ、ふふ、なぁに? 今は誰もいないからいいけど、ESの中であんまり抱きつくのは」
「わかってるわかってる! も〜、探したんだよ!? 今日は一緒に帰ろって約束したじゃん!」
「ご、ごめんね……昨日から仕事がけっこう立て込んでて、スバルくんのお仕事が終わるまで休憩していようと思ったんだけど……休みすぎちゃった」
ほんとうはちっとも怒っていないスバルは、あんずの声を聞きながら、柔らかい身体を抱きしめて、ふんふんと首筋に鼻を押し当てていた。少しだけ汗の匂いと、柔軟剤の匂いと、それから柑橘のような制汗剤の匂いがする。すべてが正しくいつも通り。
かわいいあんず。やさしいあんず。スバルにたくさんのキラキラするものを与えてくれる、大切な女の子。明星スバルの飼い主。
だから間違っても、噛みついてはならない。それを彼女に許してもらうまでは。
「じゃあ、なおさら早く帰って休んだ方がいいよ。なんなら俺がおんぶしていこうか?」
「もう、ESの中でそういうことはダメだって……」
ほんとうはスバルにもわかっているし、そんなことできるはずもなかった。けだものは獲物を捕らえたら最後、巣穴に連れ込んで、二度と帰すことはない。
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