入水心中

 静かだ。

「ジュンくん」

 潮騒には、人の心を落ち着ける効果があるという。その細かい原理をジュンは覚えていなかったけれど、ざざざざん……と、繰り返し不規則に、遠く近く揺らぐ波の音を聴いて、知識としてではなく実感として、きっとその通りなんだと納得した。
 寝転んでいるジュンには、一面の青空と、目が潰れそうなほど烈しく輝く太陽しか見えない。背中にざらつく砂が当たるけれど、その微細な刺激もまた心地よかった。
 瞳を閉じると、光に透かされて血潮の流れる自分のまぶたが見えて、思わず、誰かさんに見られたらぷりぷり怒られそうなほどの大きな欠伸をこぼす。
 波の音が聴こえる。波の音しか聴こえない。
 一瞬、あの人だ、と思った。そう呼ぶことがいちばん多いのは、この真夏の太陽のようにきらきらしい、ジュンの相方の彼をおいて他にはいない。
 けれど、少し重たいまぶたを持ち上げると。

「ジュンくん、砂、熱くない?」
「んん……?ああ、大丈夫です」
「そっか。わたし、あっちで泳ぐけど、一緒にどうかな」
「じゃあ、眠気覚ましにご一緒しましょうかねぇ」

 あんずさんだ、と思った。
 そうだ、自分はあんずと二人で、海に来たのだ、と。
 どこか期待するような表情の彼女に苦笑する。高校生の時分から大人に交じって働き、企画会議も資料作成も、アイドルのマネジメントじみた世話から活動方針の決定までお手の物、という敏腕プロデューサーの呼び声高い人であるのに、彼女にはどこか純粋で無邪気なところがある。
 世間擦れしていない、というか。
 そういう飾り気も裏表も無いあんずのことを、ジュンは好ましく思っていた。
 この業界でそういう人と出会えたことは、とても幸運なことだと。
 けれど、だからといって。
「行こ。水、きもちいいよ」
 嬉しそうに笑うあんずが、地面に伸ばしていたジュンの手を引っ張った。あんずには重みをかけないように立ち上がったけれど、ジュンの目は海よりも先に、横に並んだあんずの水着姿に吸い寄せられて、すぐに首を力いっぱい真横にひねる。

「どうかした?」
「いや、なんでもないです。その、似合って……いや。やっぱなんでもないです」
「そう?」

 砂浜よりもずっと白くて眩しい女性の肌は、目の保養だった。もとい、目の毒だった。
 ジュンは純情なとこありますから、ハニートラップにはくれぐれもお気をつけ下さいね、なんていつかの毒蛇の軽口が高笑いとともに頭をよぎった。うるさい。
 立ち上がってみて分かったけれど、浜辺には自分たちの他に誰もいない。プライベートビーチなんてわけないだろうに、どこまでも海と空と、砂だけの世界だった。
 そもそも海なんて仕事くらいでしか行ったことのない、ましてや海水浴客のいる海なんて以ての外、といった侘しい幼少期を過ごした自分の貧弱な想像力では、これが限界ということか。
 ……想像力?

「ほら、早く早く」
「わっ……と、あんずさん、急に走り出したら危ねぇですって」
「ふふ。あははは!」

 そんなふうにも笑うのか、この人は。
 いや、きっとそういう場面を見たことはあった。でもそれは、いつも彼女のそばにいた夢ノ咲の、親しい彼らだけに向けたものだったはず。
 彼女の落ち着いた色の髪がさらさら揺れる。砂を力いっぱい蹴って、繋いだ手の熱さがよくわからなくて、太陽が眩しいから、わけもわからず浮かれてしまう。きっと今、ジュンもまた、あんずに見せたことがないくらいに笑っていた。

「せえ、のっ」

 あんずの掛け声で、大きく地を蹴る。空を掻くように飛んで、ゆらゆら、波打つ水に向かって、死の間際みたいに景色がゆっくり流れていく。
 二人の身体が、水面に落ちていって。

――――――

「おわっ」
「えっ」
「……あんずさん」
「……はい」

 がばりと身体を起こして咄嗟に辺りを見回すと、隣には目を丸くして固まる、
 スーツ姿のあんずがいた。コズミックプロダクションの休憩室だ。

「びっくりしたぁ……・漣くん、起きたんだね」

 まだうまく頭は回らないけれど、それでもなんとなく状況は掴めた。仕事の合間に休憩を取ろうと思って、ソファに腰掛けたところまでは覚えている。
 腕時計を見れば、次の仕事まではまだ時間があったけれど、寝過ごさなかったことに心底安堵した。次からはアラームでも掛けておこう、と反省したところで。

「まだ次の仕事までは寝てていいよ? わたし、起こすから」
「もしかして、オレが起きるまで待っててくれたんですか……?」
「たまたま見かけたから、わたしも休憩ついでに勝手に待ってただけだよ」

 休憩ついで、などと控えめに笑って見せつつ、あんずの手元にはそこそこ分厚い資料がある。
 法を無視する勢いで働く彼女の時間を取ってしまったことに、罪悪感を覚えた
 ジュンは頭を下げようとしたけれど、あんずは両手をブンブン振って慌てたように制した。
「本当に気にしないで? ほら、人の寝息って、聴いてると落ち着くでしょう? すうすう……って。だから作業用BGMにしてたの」
「作業用BGMって……やっぱ休憩できてないんじゃあ」
「し、資料読んでるだけだから。充分癒されたから」
「まあ、オレが少しでもあんずさんの癒しになれたなら、いいんですけど」

 最初は他所のプロデューサーさんで、今もES所属とはいえ、殆ど管轄外のプロデューサーで。
 そんな長らく仕事上の付き合いくらいしか無かった彼女がばたばた慌てているのを見るのは、少し愉快だった。夢の中の、ろくに覚えてもいない水着姿はまだまだ刺激が強すぎるけれど、こんな彼女ならば、このくらいの揺らぎならば、もっとたくさん望んでも。

「……それにしても、あんずさん。男の寝息で作業が捗るなんて、ちょっと変態っぽくないですかぁ〜?」

 にんまりと目を覗き込んで囁くと、あんずの顔が真っ赤になった。眠気なんか、とっくに覚めていた。

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