ノアの不在
愛は死に至る毒だ。
血を吐いて悶え苦しみ、それでも尚、手を伸ばし求めることを止められない、おそらく人類が初めて獲得した毒だ。
その毒に総身を侵されて、溺れて、死んでいったひとを知っている。万能の神の如きひと。自分もあんなふうに、あの御方に求められてみたいと夢見たこともあったけれど。その苛烈な渇望に見向きもしなかった、あの男。
あれによく似た青年が、いま、ステンドグラスを透かした陽光の下で祝福を受けて笑っている。隣で穏やかに微笑む女は、ウェディングドレスが白く照り映えて、眩いばかりだった。
花があふれ、光があふれ、ここに愛が満ちている。
「おや、こんな隅っこで一体何を? 花嫁を攫いに来たとおっしゃるならば可愛い後輩たちの結婚式と言えど、この日々樹渉! 愛による行いを止めることはポリシーに反してしまいますねえ! うぅん悩ましいっ☆」
「……てめえこそ、式の最中に抜け出してきてんじゃねえよ」
身を捩って立て板に水で喋りまくる男に追い払う手振りを見せると、にやにやと余計に詰め寄ってきた。
嫌がられて喜ぶ小学生か。
「中に入らなくていいんです? あんずさんは貴方にも招待状を送ったとおっしゃっていましたよ?」
「ああ、律儀なやつだよな。普段はいくら金使っても懐かねえくせして」
「その発言、新郎や他の皆さんの前では絶対しないでくださいね? 本当に」
呆れた顔が癪に障るが、この手合いは怒るだけ時間と労力の無駄遣いだ。どんな反応を返しても面倒なやり取りが続くことを察して黙ると、「しかしねえ」と勝手に喋り始める。
「あんずさん、貴方が来たら普通に喜ばれると思いますよ? 懐いてないとおっしゃい
ますけど、私からすればわがままを言って親戚のおじさんに甘えているようにも見えますし。あなたの愛は、あなたが気づかないだけで既に報われているのではないですか?」
「誰が親戚のおじさんだ。それに、俺があいつのことを愛してるみたいな言い方をやめろ」
「え〜? 愛してないんですか?」
鼻で笑ってやる。
「もともと住む世界が違うんだよ、俺とてめえらは」
「ああ、なるほど。あなたはそういう愛を知ったのですね」
「ああ?」
「見守る愛、ですよ」
それを聞いて思い出したのは、御大のことではない。あの男、使徒のことだ。あれは家族を、ファンを、愛していた。おそらく御大のことも、俺のことも、この世の全てを等しく愛していた。それは御大のものとは全く違う愛。
自分には御大の気持ちがわからない。使徒のことだって理解できない。
息苦しくなる。溺れるように、とうに溺れていたことに気づいてしまったように。
「あいつに俺が来たこと喋ったら、殺す」
「ええっ、私死んでも治らないくらいお喋りなのでそれは難しいですねえ〜!」
「言ってろ」
光に背を向ける。みんなみんな溺れてしまえ。
使徒の息子、反抗的で食えない女、アイドルども、誰かを愛し愛される者すべて。どうせとっくに終末だ。
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