召しませ、陶酔

 あんずはいつものように無邪気に自分を抱きしめるスバルから、「男の子」の匂いがする、と思った。

「スバルくん、」
「ん? どしたのあんず〜?」

 ぐいっ、と突然あんずに押し返されて目を丸くしたスバルになんと言おうか迷ったが、あんずは自分でも整理の付かない、身体中むず痒くてむちゃくちゃに走り出してしまいたいような、そんな慣れない感情にただ戸惑って、少し汗ばんだ手でスカートの裾をぎゅっと握りしめて俯いた。
 放課後、でもまだまだ明るい教室の前の廊下には誰もいなくて、窓の外からは蝉の鳴き声と一緒にどこかのユニットの曲が流れてくる。
 と、いきなり両の頬にぴとっとあたたかい何かが添えられて、勢い良く顔を上げる。それはやはりスバルの手のひらだった。そしてあんずは、思っていたよりずっと近い距離で一等星の煌めきのような笑顔がぱっとはじける瞬間を、見た。

「あんず、ほっぺた真っ赤でかわいいね」

 そう言われてやっとあんずは自分が照れていることに気がついた。照れている、誰に? ……スバルくん、に?
 ばっ、と瞬時に飛び退くと、我武者羅にどこかに向かって廊下を走り出した。

「あっ、ちょっと待ってよ〜! どうしちゃったの〜!?」

 後ろからスバルの声が聞こえる。頬が、あつくてたまらない。

(「男の子」の匂い、だった)

 守沢や一年生の後輩たちに抱きつかれることも多いし、弟だっている。一応年上のはずの凛月に至っては膝枕まで提供している。あんずは同世代の少女たちよりも、「男の子」とのスキンシップが相当多いはずだ。
 しかし、あんずはそのときスバルに抱きつかれるまで「男の子」の匂いに照れるようなことは無かった。スバル自身にだって朝の挨拶代わりに何度も抱きつかれているにもかかわらず、だ。
 だからもし、いつもと違っていた点があるとすれば、それは先程抱きつかれる前にスバルに告げられた言葉だけなのだ。

(ほんとに、……あつい)

 蝉の声は止まない。頬の熱はそのままあんずの胸の内に溶けて、じわりと甘い痛みを伴った。



「あ〜あ、行っちゃったなあ」

 取り残されたスバルは、あんずの去った方に続く廊下をぼんやりと眺めながら呟いた。脳裏には先程の彼女の様子が焼き付いて離れない。
 赤くなった頬と、熱に浮かされたような、戸惑いを滲ませる瞳。手を当ててみたときの肌の夢みたいな柔らかさ。そして何より、腕の中にその小さな体を閉じ込めたときの、あの狂おしいほどの、

(……「女の子」の匂い)

 それに気づいたのは少し前のことだった。あんずを抱きしめたときに、頭が突然「くらり」としたのだ。体調不良かと思ったが他に異常はないし、何よりもその甘くて痺れるような「くらり」はスバルを病みつきにさせた。「くらり」は決まってあんずに近づいたときにやってきたが、抱きついたときは格別にそれが大きくなるとわかって、最近では前より一層あんずに抱擁を求めるようになり、北斗や真にも呆れられていた。
 その感覚が何なのか長らくわからないでいたが、先程あんずと話していたときに唐突に理解したのだ。だから、それをあんずに伝えた。そして抱きしめて、逃げられたのだった。
 スバルはうっとりと目を細めてあんずを幻視する。

(まさか逃げられちゃうなんてなあ。あ〜あ、しばらく『あれ』はお預けかもな〜?でも我慢できないよ、しょうがないよね?だってあんなに、)

「美味しそうな匂いがして、食べちゃいたいって思うんだもん」

 この世は弱肉強食。獣に狙われた無垢なる少女は、骨の髄までその身を明け渡すのみ。白い喉笛に噛みつかれる日は、そう遠くない。

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