金魚姫

 遠く遠く、喧しいお囃子の音が響き渡ってくる。深海はぼんやりとそれを聞き流しながら、自分はお祭りに来ているのだな、と考えていた。しかしここまでどうやって来たのか、誰と来たのか、何もかもが霧に隠されたようにぼんやりとして思い出せない。だが、そんなことは深海にとって『どうでもいいこと』だった。すれ違う人の顔はどれもこれもぼんやりしているけれど、その熱気はしっかりと伝わってくる。それは深海にとって毒に等しいものだった。喉が渇き、皮膚が潤いを求めている。本能のままに水分を探し求めて、ふらふらと足を踏み出した。
 屋台はたくさんあるけれど、ポケットを探ると財布はおろか小銭一つ出てこなかったのですぐに途方に暮れてしまった。とにかくこの喧騒から抜け出すのを優先することにして、帰り道を探そうとしたその時。ふと、屋台の陰になっている木に目が吸い寄せられた。正確にはその枝に吊るされた、ちゃちなビニール袋に、だ。袋の中に水が満たされているのが見え、目を輝かせたのも束の間、その中で赤い何かが蠢いているのに気がついて素早く近寄っていった。
 それは、祭りではお馴染みの屋台で獲られたらしい一匹の小さな金魚であった。尾びれはひらひらと天女の羽衣のようにたなびき、赤と言うには少々淡い、橙に近い色をしたそれは、どこか儚さと奥ゆかしさを感じさせる。
 一瞬、その黒曜石のような濡れた黒色の瞳と目が合ったような感覚を覚え、深海はらしくなく狼狽えた。『彼女』を称える言葉だけが頭の中を飛び交い、しかしそれらは喉のあたりで尻込みして何一つ口から出てこようとはしないのだ。使い物にならない言語は放り捨て、衝動のままビニール袋についたピンクの紐を木の枝からそっと外す。それからその瞳を今度は直に覗き込んで、確信した。
 自分は、この金魚に恋をしているのだと。

――――――

 場面は切り替わり、深海は自身が部長を務める海洋生物部の、その部室の中で金魚鉢をじっと見つめていた。
「あんず」
 深海は時々『彼女』の名を呼ぶ。そのたびに金魚はひらりと尾びれを翻し、応えるように視線を合わせてくれるのだ。どんなに話しかけても『彼女』は無口にぷくぷくとちいさな泡を吐いているだけだったが、きちんとリアクションをとってくれるので話を聞いているのだとわかる。
 深海は『彼女』になんでも話すことができた。他愛もない学校のことだったり、仲良しの友達のことだったりと話題は尽きることはなかったが、何よりよく喋ったのは海の話だ。海の広いこと、うつくしいこと、そこに住む生き物たちの神秘的な生態の数々。金魚は小さな硝子の鉢の中で泡を吐きながら聞いていたが、その目にはうっとりと恍惚の色が宿っているように思えた。
 『彼女』は、外では生きられない。そんなことは深海とてわかっていたが、それでもこの小さな鉢の中で短い生命を尽きさせるのは、『かわいそう』なことのように思えた。ならどうすればいいのか、それはわかっている。自由にしてやりたいのなら、どこかに放せばいいのだ。そんなことはわかっていた。
 それでも。深海は冷たい金魚鉢の硝子越しにそっと唇を押しつけながら、それがどんなエゴであっても思わずにはいられないのだ。
 彼女と、願わくばずっと一緒に、と。

――――――

 時間は流れる。残酷に、優しく、そして平等に。
 ある日深海がいつものように『彼女』の待つ部室へ足を運ぶと、金魚鉢の中で浮かんでいるものがある。それを目の当たりにした瞬間、鼓動が早鐘を打ち、血の気がすっとひいていくのを感じた。
 自分を知る者なら誰もが驚くような速さで駆け寄り、金魚鉢を両手で掴んでその中を覗く。するとそこにあったのは、腹を上にして浮かぶ金魚の死体だった。
 こうして金魚はあっけなく、あっという間にその短い生を終えた。深海の用意した金魚鉢の中で、広い世界を知ることもなく。尾びれが意思を無くした動きでゆらゆら揺れているのをぼうっと眺めると、それから深海はふらりと立ち上がった。部室の隅のテーブルに置きっぱなしになっていた、いつか旧友からもらった絹の白いハンカチを手にとると、それをテーブルの上に広げる。次に再び金魚鉢に向かい合うと躊躇なくその中に手を入れ、ざぶりと水をかき分けて金魚の死体を手に取った。生きている頃触れてみたいとあれほどまで願ったそのからだは、じんわりと湿って冷え切っている。死の温度だった。
 手にした金魚を、そっとハンカチの上に寝かせた。虚ろな瞳と目が合い、その視線から逃げるようにハンカチで死体をくるりと包み込んで手にとる。
「あんずさん」
 深海は、金魚の死体に語りかける。
「うみにいきましょうね。やはりあなたは、うみにかえるべきひとです」
 愛おしげにハンカチで包まれたそれを撫でると、深海は母なる海を目指すべく部室の扉を開いた。

――――――

 潮騒が聞こえる。学院を出て、裏手に少し歩いたら、すぐそこに海が広がっているのだ。
 砂浜に足を取られて歩きづらさを感じながらも、深海は歩みを止めない。きゅっきゅっと甲高く鳴る砂の音に愉快な気分になることもなく、そのまま海へ向けて歩き続けていた。
 ざぶざぶ、海水をかき分けてどこまでも歩いていく。泳げない自分がこのまま歩いていったらどうなってしまうのか、そんなことは今の深海には些細なことだった。両手に包み込んだ『彼女』のことは離さないまま、足が、腰が、胸が、そしてとうとう頭の先まで海水のなかに入ってしまうと、さっきまで見えていた水平線上の空が海に沈んでしまったようだ。それでも深海は歩き続ける。『彼女』を連れて、暗い海の中へどこまでも。
 だんだん肺の中の空気も無くなっていって、自分の口からぷくぷくと気泡が吐き出されていき、ついに深海の中身は空っぽになってしまった。それから肺に入ってくるのは、海の水。満たされていくその感覚に安心感を覚えながら、ふと深海は空を見上げた。そこにあったのは、波間に差し込むぼんやりとした陽光だった。まるで『彼女』に出会ったあの時の、祭りの屋台のように幻想的な光。思わずそれにむかって手が伸びた。
(ああ、きれい)
 それは、空を切って終わるはずだった。そのまま深海も金魚も、暗い海の中で終わりを迎えるはず、だったのに。
 その手を、誰かの温かく小さな手が、しっかりと握り返してきた。そのまま強い力で地上へ引き戻される。

――――――

 ざばん、と水面が割れる。深海は水上に出ると、まるで陸に上がった魚のように激しく喘いだ。肺を満たそうとしていた水が外に出ていき、入れ替わりに空気が取り込まれていく。
 けほ、けほ、と咳をする深海の冷え切った背中を、誰かがゆっくりとさすっているのを感じた。
「先輩、大丈夫ですか」
 ちいさく控えめで、それでも平生よりいくらか感情的な声が心配げな響きを帯びて届いた。返事もろくにできないまま、深海は声の主を見上げる。
「あんず、さん」
「はい、わたしです」
 こくり、あんずが頷いた。彼女は深海と同じようにずぶ濡れで、水の中に座り込んでいる。よくよく見るとここは学院の噴水の中で、どうやら深海は水浴び中に意識を飛ばして、情けないことに溺れていたようだった。
「覚えてないですか? 先輩、水浴び中に居眠りしちゃっていたみたいですよ」
 少し呆れたようにあんずが言ったので、深海はぱちくりと目を瞬かせた。その様子に、ふふ、とあんずが綻ぶように笑う。
「もう、しょうがないんですから」
 それから深海の手を引くと、「一応保健室に行きましょう。何かあったら大変ですから」と立ち上がろうとした。しかし、それを深海が手を引き返すことで止める。
「先輩、なにか……ひっ」
 突然、濡れた手が少女の太ももにひたりと当てられた。漏れ出た小さな悲鳴を意に介さぬまま、深海の手は滑らかで張りのある白い皮膚の上を自由に行き来する。その感触があの死した金魚とは似ても似つかないものだったことに、彼は密かに安堵の溜息を漏らした。
「あの、えっと、どうかしましたか?」
 頬を染め、困惑の声を上げる少女の姿は、どこかあの橙色に似ているような気がする。
「『おびれ』も、すてきでしたが。やはりあんずさんには、この『あし』がにあいますね」
「はい?」
「くすくす。それに『きんぎょばち』じゃあ、あなたにはすこしせますぎますよね。すみませんでした」
「ええと……?」
 あんずはこてんと首をかしげた。それでも、彼女は深海の話をきちんと聞いている。そして一生懸命理解しようとしてくれるのだ。
 深海は少女を愛おしげな眼差しで見つめた。黒曜石のような瞳を覗き込むと、恥じらうようにその顔が背けられる。
 その所作がどうにもいじらしくて、可愛くて。硝子に隔てられていないのをいいことに、深海はじんわりと朱に染まった頬へ、そっと口づけを落とした。

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