数学の時間、氷鷹北斗は女神の窮地を救う

 氷鷹北斗の席は、窓側の前から4列目だ。
 ぽかぽかと陽光の射し込む教室の中、今は一時間目、数学の授業中。教科書に踊る完璧な数式ひとつひとつを理解し、応用し、ものにしていく数学の授業が、北斗は嫌いではなかった。しかし、今の彼の興味を惹きつけて止まないものは、教科書の中ではなく前方ーーー前の席に座る、同じように授業を受けているはずの少女であった。
 彼女ーーーあんずの背中は窓から暖かな陽だまりを浴びてゆらゆらと揺れ、シャープペンシルを握った手元は何やら激しく動いている。数学のノートを取っているにしてはやけに落ち着きがない、忙しない彼女の様子に北斗は釘付けになっていた。
(何か、内職でもしているのだろうか。あんずはただでさえあまり成績が良くないのだから、後で注意しておくべきだろう)
 そう考えていたとき。ふいに、

「それでは次の問題を、あんずさん」

 厳しいと有名な教師、椚の声。その声に北斗も、恐らくはあんずも凍りついた。
 がたんとあんずが席を立った、そこまではいいものの、彼女は完全に途方に暮れている。どの問題を問われているかすらわかっていないであろうその背中から漂う哀れな雰囲気。椚の目が少し吊り上がり始める。さすがの北斗も、普段世話になっている、そうでなくとも好ましく思っている自覚のある少女の窮地を静観できるほど鬼ではなかった。
(まあ、そんなに難しい問題ではないし、問題を教えるくらいなら、)

「……問68」

 ぼそりと北斗が呟くと、あんずの背中がぴくっと跳ねた。しばし沈黙が流れた後、こわごわと答えを口にする。

「え、えと、48です」

 あんずが導き出した答えは正解で、北斗も無意識に詰めていた息を吐く。椚の目と眉も、普段の位置に落ち着いていった。

「正解です。授業は真面目に聞くように」
「はい……」

 しゅんと肩を落とす彼女は少し可哀想だが、この程度の注意で終わったのは幸いだろう。
 そこで、タイミングよく授業の終わりを告げる鐘が鳴った。

「では、授業はここまで。宿題は忘れないように」

 ようやく席に着いたあんずがひとりでそっと胸を撫で下ろしているのを見て、北斗はこっそり笑った。
 授業中の張り詰めた空気が解れて、周囲の人間がガタガタと席を立ち思い思いに喋り始める。あんずは座ったまま北斗の方を振り返って、眉を下げたままおずおずと口を開いた。

「北斗くん。さっき、ありがとう」

 それからぺこん、と下げられた彼女の後頭部のあたりを見つめながら、北斗は、その頭の形が小さくてきれいなことに感心した。しかしさっき、という言葉に、彼女が授業中の内職をしていたことが思い出されて少し眉間に皺を寄せる。

「あんず、先程内職をしていたな?」
「うう」

 下がったままの頭がさらに沈み込む。痛い目を見て、どうやら反省しているようだ。そんな姿を見ていると少し可哀想になってくる。

「ごめんなさい。もうしません」
「うむ、それがいいだろう。ところで、あんなに熱心に何をしていたんだ?」

 そう、それは授業中、北斗の好奇心を疼かせて仕方なかった問題だった。あんずはいつも彼女なりに一生懸命、授業についていこうとしている。そんな彼女が、あんなに必死に、脇目も振らず、教師の声すら聞こえないくらいに熱中することといえば、プロデュースのことぐらいかもしれない。
 あんずはその言葉に『ばっ』と顔を上げた。目にきらきらと光が散り、「あのね」と興奮気味に語る。
 それは、半分北斗の予想通り、半分は予想外な答えだった。

「これ、ノートに書いてたんだけど。プロデュース、こんなパフォーマンスしたらどうかな、って。……北斗くんが」
「俺か?」
「うん。これ」

 彼女は一冊のノートをぱっと広げる。それは先程の数学のノートで、途中までは計算式の数字やアルファベットが整然と纏まっている。
 しかし途中からは、ステージの効果的な使い方、観客に最大限魅せるパフォーマンスなどについて事細かにびっしりと記されており、しかもそれはすべて北斗に関することだった。
 北斗は先程のゆらゆら揺れる彼女の背中を脳裏に浮かべる。
 
(あんなに必死に、脇目も振らず、教師の声すら聞こえないくらいに熱中して。俺のことだけを、考えていたのか)

「どう、かな」

 リアクションのない北斗に対して、あんずがさっきまでの自信満々な様子から打って変わって、不安げに首を傾げる。北斗はなんだか背中のあたりがむずむずして、彼女を撫で回して滅茶苦茶にしてしまいたい衝動に駆られた。鋼の理性でそれを押さえつけると、「んんっ」と少し咳払いをする。

「ああ、いや、よくできている」
「ほ、ほんとう?!」
「ああ。……とはいえ、授業を疎かにするのは感心しないぞ。学生の本分は勉強であり、あんずもプロデューサーである前に学生なのだから、」
「ホッケ〜、何ニヤニヤしてんの?」

 がばっ、と突然背後から現れたスバルがそのまま北斗に抱きついてきて問うた。

「っ明星、抱きつくな。 それに俺はそんな締りのない顔は、」
「めっちゃしてるけど〜? あんずと何話してたん?」

 スバルがあんずを見ると、彼女は困ったように首を横にふるふると振った。それを見てスバルもきょとんと首を傾げ、それから楽しそうに軽口を叩く。

「あんずもわかんないの? じゃあホッケ〜、あんずと話してただけなのにニヤニヤしてたの? なに想像してたのさ〜、このムッツリオヤジ〜!」
「明星!」

 そうしていつも通りスバルを摘み上げて小言を並べ始めた北斗に、あんずはふふっと笑みを零している。女神のように、母親のように。
 どちらにせよ、上の空になるまで自分のことを考えてくれるような女の子だ。氷鷹北斗と言えど、骨抜きにされるのは仕方のないことかもしれなかった。

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