半同棲のススメ

 浮つく気持ちを顔には出さないまま、アイドルグループTrickstarのリーダー、『氷点下の王子様』こと氷鷹北斗は自宅マンションのドアを開けた。部屋にはふんわりと食欲をそそる香りが立ち込めており、それが彼の心を更に緩めていく。
 逸る気持ちを押さえつけて玄関に踏み入り、ドアを閉めて鍵までかけて、そしてようやく彼は室内に存在する『もう一人』に向けた言葉を発することができるのだ。

「ただいま、あんず」

 ひょこっ、と彼の声を聞きつけたシンプルなエプロン姿の女性―――あんずが奥から顔を出した。途端ぱっと華やぐ表情は、出会った高校時代から年齢を経てもなお可愛らしく、それでいて何にも変え難い美しさだと北斗は内心で褒め称える。
 あんずは、抑えきれない喜びの滲む声音でうっとりと答える。

「おかえりなさい、北斗くん。ご飯できてるよ」

 この二人、実は結婚していない。

――――――

『アイドルとして盤石な地位を築くまで、結婚はしない』

 それが北斗とあんずの、アイドルと同僚の、後ろめたい恋愛を成立させる上での最低限の盟約だった。それについては十分に話し合い考えた上で出した決断であり、もちろん生涯を共にする覚悟も既にできている。
 お互い真面目なたちである二人が恋人関係に至るまでの苦難の数々、そしてそれに振り回されるTrickstarのメンバーたちの艱難辛苦の日々については割愛するが、紆余曲折を経てようやく二人は交際にまで漕ぎつけたのだった。
 こうしてほぼ毎日お互いの家に泊まり込んでいるので、二人の間にはもはや気まずさやよそよそしさも無い。

「今日の夕飯は肉じゃがか。うまそうだな、さすがあんずだ」
「ふふ。上着、ハンガーにかけとくね」
「ああ、すまん。頼む」

 北斗は、テキパキと動くあんずの姿になんとなく、世間の母親とはこんな感じなのだろうか、などとぼんやり考えながら、夕飯が湯気を立てるテーブルに座って待った。今日のメインは肉じゃが、副菜に茄子の揚げ浸しと煮豆、そして定番のご飯と味噌汁が並んでいる。彼女は北斗と付き合いだしてから、彼の好みに合った和食のレパートリーを増やしているようだ。
 あんずもすぐにぱたぱたと戻ってきて、テーブルの北斗の正面に着席した。

「ごめんね、待たせて」
「いや。俺のために動いてくれていたんだから、待つのは当然だろう」
「北斗くんのそういうところ、とってもすき」

 ごほん、と北斗の無意味な咳払いが響く。彼は箸を手に取った。

「……冷めてしまってはもったいない。いただきます」

 あんずは、北斗の貴重な姿を見て可笑しそうに微笑む。

「ふふ、めしあがれ」

 北斗は真っ先に、湯気の上がる肉じゃがへ箸を向けた。大きめに切られたじゃがいもを割ると、透き通った煮汁が中までしっかり染みているのがわかる。少し吹き冷ましてから口に含むと、ほくほくしたじゃがいもからふわっと香る出汁と醤油の香りが、胃袋をぐっと掴んで離さない。
 しっかり味わって咀嚼し、嚥下した後で満足げにつぶやいた。

「うまい」
「よかったぁ。他の料理もね、味付けがうまくいったの」

 得意げなあんずの姿を見る機会は、実は外ではあまり多くない。彼女は控えめな性格だし、成果を誇るようなことがないからだ。全てはアイドルのためと身を粉にして働く彼女の、自信ありげな表情は希少である。
 それをこんな何気ない場面で見られる自分は、彼女の中で特別な存在なのかも知れない、と北斗は言い知れぬ優越感に浸る。

「あ。ところで来月のお休みが被ってる日のことなんだけどね」

 唐突にあんずが言った。二人の休みはお互い多忙なこともあり、そうそう被ることはない。だからこそ数少ない休日は家でのんびりしたり、人に気付かれにくいような場所へ出かけたりと一緒に過ごすようにしていた。

「ああ。覚えている」
「うん、申し訳ないんだけどその日、高校のときの友達の結婚式に呼ばれてるから出かけないといけないの」

 ごめんね? と、しゅんとするあんずは少し頭を下げていた。

「いや、構わない。楽しんでくるといい。……しかし、結婚式か。今年に入って3度目だな」
「うん。最近呼ばれることが多くなってきたの」
「そういう歳になったんだな」

 北斗は感慨深いような気持ちで呟いて、しかしすぐに「しまった」と頭を抱えた。それからそろそろとあんずの顔を伺う。
 彼女はにこにこしたまま、こてんと首を傾げて北斗を見つめ返した。かわいい。……ではなく。

「す、すまん。無神経な発言だったかもしれない」
「え? わたしは気にしてないから大丈夫だよ」

 あんずはなんでもないように言ったが、しかし北斗は今発言の内容に言及していない。それなのに話が通じているということがどういうことかわからないほど、この歳になった北斗は鈍感ではなかった。
 北斗は神妙な表情で考え込むと、ここは言葉にすべき場面だと結論付け、意を決して口を開いた。

「あんずをちゃんと守れるくらいのアイドルに……男になるまでは、籍を入れるべきではないと思っている。だが、俺のせいであんずの婚期を遅らせてしまっている、しかもいつまでこの状況が続くかもわからない」
「もう、そんなの今更でしょう? ちゃんと話し合って決めたことじゃないの」

 あんずはあっけらかんと笑って言ったが、北斗はすかさず頭を振る。

「だが、俺自身が、お前を縛り付けて生殺しにするような、この俺のことが憎くてたまらないんだ。こんな男が嫌になったら、その時はいつでも言って欲しい。……あんずは魅力的な女性だし、いくらでもやり直せるだろうからな」

 最後の一言を言い放ってから、しばし無言が続いた。あんずは口元だけに笑みを浮かべてしばらく「ええと、ええと、」と意味のない言葉を並べていたが、それも尽きると俯いてしまった。肩が小刻みに震え始め、両膝に乗った手にもぎゅうっと力が込められる。それを見た北斗ははっとして、見苦しいほど狼狽えた。

「あ、あんず、悪かった、言い過ぎたな。俺が言いたいのは、つまり……」
「……北斗くんは、わたしが、嫌?」
「そんなわけないだろう!!」

 咄嗟に出た怒声に、自分でも驚いた北斗の目の前であんずの細くしなやかな肩の曲線が大きく揺れた。それを見て北斗は更に焦り始める。

「っ、大声を出してすまない。しかし、俺は自分が不甲斐無いんだ。好きな女を幸せにしてやれないことが、悔しくてたまらない。だから、もしそれがお前の幸せに繋がるなら、俺のことはどうか適当に捨ててほしいと言いたくて、」
「……そっか。よかったぁ」

 ゆっくりとあんずの顔が上がっていく。再び北斗が目にした愛しい、気丈な女性の顔には、いくつかの涙の粒が流れて、それでも尚彼女は笑っていた。まるで幼い迷子が親を見つけて心底安心したかのように。

「わたしね、てっきり北斗くんに捨てられちゃうのかと、思って」
「そんなことは有り得ない、俺の女神は永遠にただ一人だ」

 北斗は高らかに宣言する。自信を持って、誤解の無いように彼女の目をしっかりと見て。
 あんずはへにゃっと笑った。心なしか頬に薄紅色が差して、やはり幼子のような愛らしさだ。もっとも、彼女に心底惚れ込む北斗の目には愛らしいだけのものではないが。

「恥ずかしいこと言わないで……」
「む」
「気にしなくてもいいの。だってわたし、もうみんなのものじゃないもん。もう予約済みだから」

 予約、とちいさく北斗が呟くと、あんずはいたずらに笑って左手の薬指を振って見せた。

「北斗くんが、ここに指輪を嵌めてくれるんでしょう? わたし、北斗くんのものになる日を楽しみにしてるんだから」

 心臓を矢で射抜かれたような衝撃が走った。その瞬間、北斗は目の前のテーブル分の距離が邪魔で、その向こう側の彼女にすこしでも近づきたかった。できれば溶け合って一つになってもいいくらいに。
 だがぐっと理性ですべてを抑え、それに換えてあんずの目をまっすぐ見つめる。

「無論そのつもりだ。ここだけの話、俺にはあんずに結婚式で白無垢を着てもらうという野望がある」
「ふふ。その時までわたしを、離さないでね」
「離すものか、前言撤回だ。あんずは誰にもやらん」

 絶対に、俺のものにする。
 北斗は今度こそ確固たる決意を持って誓った。そして、抱きしめるのはせめて夕飯を食べてからにしようと考えた。
 彼女に自分の愛をすべて伝えきらなくてはいけないから、多分今夜は、長くなる。

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