最果ての蒼

 すぅー、と、海の匂いで胸を満たすと、あの学院にいた頃のことをなんとなく思い出す。今いる海辺の街からは遠く離れた場所のはずなんだけど、なんとなく雰囲気が似ているからかもしれない。真夏の痛いくらいな日差しに照らされて、遠くでゆっくりと揺れる小波をぼんやり眺めながらそう思った。
 目まぐるしい芸能人としての生活にはそろそろ慣れてきたけど、色とりどりのペンライトや白熱する照明、毎日そんなたくさんのキラキラに囲まれていても、夢ノ咲で過ごした日々は俺の身体のどこかすみっこにあって、こういうちょっとした瞬間にひょいっと顔を出す。
 寂しいことも、辛いことも、苦しいこともあった。けど、それより楽しくて暖かくて、キラキラな毎日をくれた人たちのこと。
 北斗、真、真緒。今でも同じTrickstarとして芸能界を生き抜く、最高の仲間たち。
 しののんやち〜ちゃん先輩、2winkの二人、朔間先輩、紅月、Knightsの人たち、あの生徒会長だって。みんなみんな、今はいろんな形で活躍しているらしい。学院を出てユニットが解散したところや、アイドル以外の道に進んだ人もいると聞いたけど、みんなどこかで輝いてる。
 俺も、今はアイドルとしていろんなお仕事を頑張ってる。キャラが合っているのもあって、バラエティ番組に出させてもらうことが多いけど、最近だとたまに演技のお仕事も入るようになった。
 
「明星さーん、準備できたんでそろそろ撮影再開しまーす!」

 スタッフさんが呼んでいる方を見ると、たくさんの人がせかせかと働いているのがわかる。誰かを輝かせることができる、すごい人たち。
 昔はあの中に、あの子もいたんだけどな。

 もう一度海原を見渡す。それからしくしく痛む心臓には気づかないふりをして、俺はいつもの『アイドル・明星スバル』らしく明るい返事を返した。

「はーい、今行きまーす!」

 ねえ、あんず。
 君は今、しあわせ?
 
――――――

 この海沿いの町ではゆっくりと時間が流れる。あの学院にいた頃では想像もできないくらい、私は穏やかな時を過ごしていた。穏やかで、退屈な日常を生きていた。

 今は夏休みだけど大学には一応通っているし、アルバイトもしているので普通に見ればそこまで暇なわけでもないだろう。しかし、高校生だった頃の私はとにかく毎日が戦争のように忙しなかったのだ。あの頃を思うと、今はまるで老境の余生の如く平坦な日々である。
 『プロデューサー』としてみんなの役に立つため、我武者羅にできることを探していた。ライブやイベントのお仕事を取りに駆け回ったり、ユニットを売り込んだり、かと思えば衣装を作ったり、掃除や買い出しといった小さなことまで。過労と睡眠不足で倒れたことも一度や二度ではない。その度に周りを心配させてしまったことは、申し訳ないと思っていたけど。
 それでも私は、みんなをキラキラ輝かせるお手伝いができることがたまらなく嬉しかったから。流されるような生き方を変えたくて、夢ノ咲に飛び込んだことを後悔したくなかったから。

 みんなを愛しているから。

 だから私の持っているものは全て捧げても構わなかった。血の一滴に至るまで、彼らの糧になるのなら、それで本当に幸福だったのだ。
 こうして彼らのもとを離れたことだって、彼らのためなのだ。だから、後悔なんかちっともしていない。こうして遠くから彼らの活躍を伝え聞くだけで、私は、しあわせ。
 死んじゃいそうなくらい、さびしいけれど。

「あんずちゃん。僕は煙草を吸ってくるから、ちょっとの間お店を頼むよ」

 店長の声に、沈んだ思考を浮上させた。またアルバイト中にぼんやりしてしまったみたいだ。もっとも、時刻は19時、閉店前。もともと人の多くない土地のお店だから、この時間にもなるとお客さんは全然来ない。店内に置かれた場違いなずんぐりとしたテレビの音だけが響く中、やることもないとつい色々考えてしまう。
 人当たりの良さそうな初老の店長は、奥さんを亡くされてから、気丈に一人でお店を守ってきたすごい人だ。ヘビースモーカーなのが玉に瑕かもしれない。

「大丈夫ですよ。でも、煙草は程々にしてくださいね」

 すると店長は気さくに「年寄りから老後の楽しみを奪わんでくれよ」と返す。まだ60代だし、老後ってほどでもない気がするけれど、とやかく言っても無駄なことは分かっているので私は苦笑して「いってらっしゃい」と見送った。
 ばたん、とドアが閉まって店長が出ていった後は、再び店内にテレビの音だけが流れだす。丁度学生時代に仲良くしてくれた彼が映っていて、どうやら次のシーズンのドラマで主演を務めることが決まったようだった。

『えー、今回は初めての主演ということですが、やっぱり緊張していらっしゃいますか?』
『う〜ん、あんまり緊張とかはしてないです! ただラブシーンがあるので、そこだけ不安かなあ?』
『おおっ、今をときめくアイドルのラブシーンとは今から楽しみですね! 今までのイメージとはまた違った一面が見られるかも?!』
『期待しててくださいね! すっごいドキドキさせちゃいますから☆』
『あはは! 皆さんこれは要チェックですよ〜? では、以上! Trickstarの明星スバルさんのインタビューでした〜! ありがとうございました〜!』
『みんな、よろしくね〜☆』

 あの明星くんがラブシーン。あの頃の姿からはいまいち想像がつかないけれど、彼も22歳だ。そろそろ大人の魅力も身につけるべき時期に来ているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、お店のドアベルがきゃらきゃらと鳴り響いた。珍しくお客さんが来たみたいだ。

「いらっしゃいませ、1名様ですか」

 すると店内に滑り込んだその人は、私に満面の笑顔を見せてくれた。まるで太陽をいっぱいに浴びたヒマワリみたいな、暖かくて快活な笑顔。しかし私の顔を認識するや否や、その表情は大きく変わった。驚愕、困惑、悲痛。何から手を付けていいかわからない、みたいな顔をしている。
 一方、私の方も内心ではいろんな感情が渦巻いていた。どうしてここにいるの、元気でやっているの、みんなは元気なの、なんで見つけてしまったの……。

 それでも最後に残ったのは、歓喜だけだった。許されないけど、私は、あなたに……スバルくんに、また会うことができて嬉しかった。この幸運に、せめて今だけはと心の中で感謝した。

――――――

「ご注文は」
「おね〜さんを、テイクアウトで……☆」
「うちにはそういうの置いてないです」

 ぴしゃりと言い放つと、スバルくんは「あんずのけち〜!」とリスみたいに頬を膨らませた。22歳男性にあるまじき可愛らしさである。
 あの後、我に返ったスバルくんはまるで今まで気まずいことなんか何もなかったみたいに「あんずだ! 久しぶり〜!」と破顔したものだから、私は流されるままに彼を奥の席まで案内した。幸いお客さんは誰もいないからいいけど、こんな今をときめく大人気アイドルグループのメンバーが、変装もせず片田舎の喫茶店まで来て何をしているのだろうか。
 私の怪訝そうな表情から察してくれたのか、彼は「あっ!」と思い出したように語りだした。

「今度ドラマに出るんだけどね、ここの近所で撮影してるんだ〜。だから今はこの辺に泊まってるんだけど、まさかこんなところであんずに会うとは思わなかったからびっくりしたよ〜!」

 つまりこの再会は完全に偶然らしい。運命の悪戯とはこのことだ。

「あ、注文しなきゃね。じゃあこのソーダ水お願いしま〜す☆」

 呑気に言ったスバルくんには全く影を感じない。高校3年の夏、何も言わずに突然消えた同級生に対して、思うところが無いわけじゃないだろうに。実際、最初に顔を合わせたときは酷く混乱した様子だったから。何も言わないでくれるのはありがたいけど、もっと責められたりすると思っていたから少し拍子抜けだ。
 でも今は彼に甘えていたい。だって、責められたところで理由なんか話せないから。

「……かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
「うわあ、ウェイトレスさんって感じだね〜!」

 無邪気に笑いながら興奮したような彼にちょっと照れくさい気持ちになりつつ、一礼して厨房に引っ込んだ。
 ソーダ水のボトルを空けると、透明なグラスにゆっくり注ぎ込む。溶け込んだ炭酸が蒼い水面でぱちぱちと踊っている様子はいかにも夏らしい。注ぎ終わったら、上にバニラアイスを乗せ、レモンをさくりと一枚スライスして添えれば、完成だ。
 グラスにストローを挿してからコースターとスプーンとともにお盆に乗せ、厨房を出て、再びスバルくんの座る席に向かう。彼は何やらきょろきょろと落ち着かない様子で、お店の中をあちこち見回していた。近くまで行くと私に目を向けて、ぱっと眩しいくらいの笑顔になる。

「お待たせしました。ソーダ水でございます」 

 期待に煌めくスバルくんの瞳に気恥ずかしくなりつつ、彼の前にコースターを敷いてスプーンとグラスを置くと、中の氷がカチャカチャと鳴った。

「わあっ、キラキラしてる〜☆ それじゃ、さっそくいただきま〜す!」

 スバルくんは大喜びでバニラアイスに取り掛かり始めた。「んま〜い!」とはしゃいだ声を上げる姿が昔と重なって、懐かしい思いに駆られる。

「そんなに喜んでくれると、作った甲斐があるね。大したものじゃないけど……」
「そんなことないよ、あんずの作ったものは何でも大好き! 昔から、よく差し入れとかしてくれたもんね?」

 昔。その言葉にドキッとした。
 いつの間にかアイスを食べ終わったスバルくんが、スプーンでグラスをかきまぜながらじいっと見つめている。出会った頃みたいな人間離れした感じじゃない、切実な感情の込められた人間の目だ。

「あんず、今日の仕事はいつ終わるの?」
「ええと、8時だから……あと、1時間くらい、かな」

 なんだか変な空気だ。スバルくんの目が見てられなくて、彼のグラスに残ったソーダ水に目をやると、その蒼は澄んで泡が弾け、どこかスバルくんの瞳に似ている。
 
「じゃあ、待ってるからさ、」

 今日は、ほんとにテイクアウトしちゃ、だめ?

 顔をあげてスバルくんの顔を見る。縋るような、乞い願うような、求めるような。それは見たことの無い、まるで男のひとみたいな顔だった。
 もうその言葉の意味がわからないほど子供ではない。彼も私も。

「……わかった。待ってて」

 なんでかわからないけれど、気がついたらそう言っていた。
 ううん、わからない、なんて嘘だ。私はずっと、彼の側に居たかった。プロデューサーだった頃の私には言えなかったけど、何者でもない私ならそう願っても許される気がしたのだ。
 たとえ、今この時だけの間違いだとしても。
 
――――――

 『プロデューサー』は『アイドル』の友達ではない。ビジネスパートナーである。
 これは『プロデューサー』の大前提であり、転校時に学院側から口を酸っぱくして言われたことだ。私が女だからというのもあってか、アイドルに深入りしないようにと念を押されたのを覚えている。
 『アイドル』は恋愛禁止。ましてやビジネスパートナーたる『プロデューサー』と不適切な関係を結ぶことは、学院の存続を揺るがすほどの大きなスキャンダルに繋がる。それは『アイドル』の未来を潰すことにも等しい……。
 そのくらいのことは、私だって知っているつもりだった。今まで数え切れないほどの芸能人が色恋によって身を滅ぼしていることは、テレビや新聞を見ていれば誰でも知っている。
 特に『アイドル』は、人々の愛によって生まれる偶像なのだ。そんな『アイドル』がもし、たった一人に愛を囁いているとわかったらどうなるか。それまで集まっていた何千何万もの愛は、一瞬にして憎しみに転じるだろう。
 そんなことが、あのときの私は、本当はよくわかっていなかった。近くにいる人と距離を置くのがどんなに難しいことか。友達にならないことがどんなに苦しいことか。愛さないことが、どんなに悲しいことか。

 だから私は失敗した。彼ら彼女らの愛を、拒むことができなかった。

「あんずちゃん、かわいい〜☆」
「結婚してください!」
「好きだったよ」
「あんず、大好き〜!!」
「あんず」
「好き」
「愛してる」

「ふぅん、そっかぁ」

「愛してもいないくせに」

 そうだったら、よかったんだけどね。
 箱庭の作り手の意にそぐわない不純物は、つまみ出されてしまうだけだから。

――――――

「あんずがいなくなった後、いろんなことがあったよ」

 この辺りに一軒しかない駅沿いのビジネスホテル。そのぼんやりとした薄暗い照明に照らされた二人には狭いようなベッドの上で、隣に寝転ぶスバルくんは私を見つめている。彼らしからぬ、熱っぽい眼差しで。
 お互い何も身に着けていないので、スバルくんの高めの体温が直に伝わってきて暑いくらいだ。先程までの行為で汗をかいているから、肌がぺたぺたと密着している。きもちいい。

「Trickstarのみんなは泣いてた。しののんとか、下級生のやつらも。ガミさんは怒ってたし、オカマさんは心配してたし、ザキさんとかオッちゃんは寂しそうだったよ」

 想像はしていたけれど、やはり私がいなくなったことでみんなを動揺させてしまったみたいだ。仕事の引き継ぎはプロデューサー科の後輩に完璧に済ませていたけれど、こればかりは言う訳には行かなかった。そうするしかなかったとは言え、申し訳ない。

「そっか。みんなには、迷惑かけちゃったね」
「……う〜ん、迷惑とは違うかな?」

 スバルくんはどこか複雑そうな表情をして言う。

「違う?」

「あのね、おれたちみんな悲しかったんだ。なんの相談もしてもらえないまま、大事なあんずがある日突然いなくなっちゃったんだもん」

 おれたち、頼りにならなかった?
 そう言ってスバルくんが首を傾げた。それに私は頭を振って返す。

「違うの。違うんだよスバルくん。理由は言えないけど、みんなに言ったら、みんなのためにはならなかったんだよ」
「おれたちの、ため……? 誰かにそう言われたの?」
「違うよ。私がそう思っただけ」

 ちょっと嘘をついてしまったけど、大体は真実だ。みんなの未来のために、私の存在は邪魔になる。そう判断されただけ。だから距離を置いて他人になろうとした。
 スバルくんは読めない表情でなにやら考え込んでいるようだったが、やがてボソッと何事か呟いた。

「ふぅん、そっかそっかぁ……佐賀美ちゃんがやけに落ち込んでたのも、やっぱりそういうことかぁ……」
「え? 何て?」
「んーん、なんでもない! それよりさあ、明日って空いてる?」

 唐突に聞かれ、とっさに明日の予定を思い浮かべる。バイトはお休み、急ぐ用事もなく、学校は休みだ。つまり完全なオフ。

「うん、特にやることもないし、空いてるよ」
「じゃあさ、午後に海の方を案内してよ! 明日は午前中で撮影はおしまいだからさ」

 だめ? と言って彼は首を傾げた。やっぱり22歳とは思えない可愛らしさ。先程ベッドの上で見せた、欲に支配された男の人の表情とは別人のようだ。当然拒めるはずがない。

「うん、いいよ。一緒に行こう」
「やったあ!」
 スバルくんは目を細め、にかっと歯を見せて笑った。

――――――

「あんずは、昨日手続きを終えて転校した」

 夏休み明けの朝のホームルーム。佐賀美ちゃんーー俺たちの担任は、普段の草臥れた様子からは想像もつかないような重苦しい、鉛の塊を飲み込んだみたいな様子で告げた。
 教室は一瞬時間が止まったみたいになって、同じクラスのみんなが「何が起こったのかわからない」みたいな顔で、佐賀美ちゃんが嘘だって、冗談だって言ってくれるのを待ったけど、いつまでもその時は訪れなかった。俺だって信じられなくて、みんなが事態をちゃんと把握して、佐賀美ちゃんに詰め寄り始めてもどこか他人事みたいに感じていた。

「こんな時期に転校なんておかしいだろう、理由は何なんだ?!」

 誰よりも真っ先に佐賀美ちゃんに喰ってかかったのはホッケ〜で、やっぱりなあと思ったのを覚えてる。それから、佐賀美ちゃんがなんて返したのかも。

「……家の事情だ。お前たちには話せない」
「っ!……話にならん、直接聞きに……っ!」

 とっさにホッケ〜は教室から出ていこうとした。けど、佐賀美ちゃんが「無駄だよ」と声をかける。

「もう引っ越しは住んでる。あんずは一人で、離れた町に行っちまった」

 隣でウッキ〜が、「明星くんどうしよう、電話、かからない」とおろおろしている。何もかもが不自然な転校だった。三年の夏休み明けに、連絡を完全に断って、あんずは一人でどこかに消えてしまった。ホッケ〜が、がくりと膝から崩れ落ちる。
 教室は再び静まり返ってようやく俺は、夏の間あんなにうるさかった蝉の声が、いつの間にか聞こえなくなっていたことに気がついた。

 そして、君のいない時間が始まったんだ。

――――――

 あの学院の海はこんなにきれいじゃなかったけど、それでも私にとっては楽しい思い出に溢れた大好きな場所だった。だから住む場所を探していたとき、この街の海を見て確信した。ここなら、一生あなたたちを忘れないでいられるって。
 潮騒が遠く、近くに聞こえる。スバルくんを案内した海の見える小さな東屋は、屋根の下に二人掛けたらいっぱいな小さなベンチがぽつんと置いてあるだけの簡素なものだけど、私が見つけたお気に入りの場所だ。だから大切な彼には教えてあげたかった。

「あんず、海がすっごくキラキラだね〜! 良い場所教えてくれてありがと!」

 スバルくんは東屋から見える景色が気に入ったみたいで、陽光にキラキラ輝く水面を飽きることなく眺めていた。隣に座るスバルくんの瞳を盗み見ると、蒼穹の瞳には無数の煌めきが閉じ込められている。
 天才アイドル明星スバルの、人を引きつけてやまない輝き。

「スバルくんの目も、キラキラしてる。きれい」

 思わず零すと、「あはは、ありがと」とあっさり返すものだからさすがに慣れてるなあと感心してしまう。

「あんずはさ、ここでの暮らしはどう? 楽しい?」
「うん。近所の人も良くしてくれるし、前の街ほど便利ではないけど最低限のお店もあるし、それにとっても静かで落ち着くの」

 だから私は、大丈夫。
 嘘は言っていないけど、質問に答えてもいない。ずるい回答だと自嘲した。

「ふうん。だから転校しちゃったの?」

 瞬間、凍りつく。スバルくんの方を見られない。

「あんず、変な時期に転校したよね。それってやっぱり、プロデューサーに疲れちゃったのかな?」
「違うっ! そうじゃない、そうじゃないの……」

 咄嗟に否定の言葉が飛び出す。それだけは絶対に無いのだ。でもスバルくんは続ける。無邪気な男の子のように、問いを繰り返す。

「じゃあ、なんで?」
「それは……」

 言えるはずがない。言ったらきっと、この人は。

「俺たちのせい、だよね」

 ……やめて。

「俺たちがあんずに近づきすぎたせいで、あんずは」

 やめて、やめて。

「先生たちに、学院に、目をつけられちゃったんでしょ?」

 違う。あなたたちのせいじゃない。私が、プロデューサーとしての自覚が無かったせいで。

 そう訴えるつもりでスバルくんに向き合うと、ぱちりと目が合う。その真剣な眼差しに目を奪われたのも束の間、彼の両腕が伸びてきてそのままがっちりとホールドされてしまった。
 背中に回された腕の拘束は、そう簡単に解けそうにない。

「一緒に帰ろうよ、あんず」
「……えっ?」

 スバルくんの口からあまりにも予想外なセリフが飛び出したものだから、展開についていけない私はただ呆然とした。拘束のせいで彼の顔は見れないけど、言葉からは乞い願うような響きが伝わってきた。

「今度こそ、守るから。みんな待ってるんだよ? ホッケ〜もウッキ〜もサリ〜も。あんずがいなくちゃ、Trickstarの星は完成しないよ」
「……できないよ」
「なんで?」

 スバルくんは戻ってきてほしいと言ってくれている。でも、彼は大事なことを忘れているのだ。
 それを私は丁寧に説明してあげる。わかりきった現実を再確認する。

「今のわたし、『プロデューサー』じゃないよ。普通の大学生で、普通の女なの。スバルくんとは全然違う。もう住む世界が違うから、みんなと一緒に居ちゃいけないの。だから、みんな早く私のことを忘れ」
「違くない!なんで勝手に俺から遠ざかろうとするんだよ、俺を置いていかないでよ!」

 急に肩を掴まれて、私と彼の間に隙間風が入るくらいの距離が開く。そのまま目を覗き込まれた。
 そこで気づいた。スバルくんが、泣いている。

「俺はあんずが好きだったんだ! 『プロデューサー』とかどうでもいいんだよ! 君と喋ったり、遊んだり、勉強したり、漫画読んだりして! 普通に友達でいたかったんだ! 側に居たかったんだよ! だから、」

 もう離れないでよ。
 蒼く透き通る瞳から、雫がほとほと流れ落ちる。まるでそれは一瞬で空を堕ちていく流星みたいで。
 もったいない、と思った。無意識に私はスバルくんに吸い寄せられて、昔彼にされたみたいにその雫に舌を触れさせる。
 塩辛い涙の味。咄嗟に泣き止んだスバルくんの見開かれた瞳と、至近距離で見つめ合う形になる。
 そのまま二人、どちらからともなく瞳を閉じた。それから惹かれ合うように距離は縮まってゆき、やがて唇が柔らかく触れ合う。それだけの、拙い口づけ。それでも今この瞬間の思いを伝えるには、これが一番合っているように思われた。
 しばらくして、少し唇を離してから目を閉じたままで、噛みしめるように抑えきれない気持ちを呟いた。胸いっぱいに広がる暖かい感情の、その名前は。

「スバルくん、すき」 

 ああ、もはや私は彼に奪い去られてしまうしかないようだ。
 だって始めて出会ったあの日から、私の心はあなたの光によって焼き尽くされてしまっていたんだから。

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