さてその他は、
「『キスの意味』?」
「うん。明星くんは知ってる?」
スバルの学院内での昼食とは、ほとんどが真緒を除いたTricksterの同じクラスのメンバーと共にするものである。最近では多忙を極め、昼も学院のどこかを駆け回っているのかあまり見かけなくなったあんずも、その時は一緒に2-Aの教室で寄せ集めた机の上に弁当箱を広げていた。
さて、そんな中で女子生徒一名の実質的な男子校には似つかわしくない話題が出てきたのがなぜだったのかあまり記憶にないが、ともかく真が発した問いにスバルは考える素振りすら見せず即答した。
「知らなーい。そんなのあるの?」
「うん。僕も詳しくは知らないんだけどね」
それから真はスマート端末を取り出し、慣れた手つきで検索をかけて出てきた答えを読み上げる。
「劇のセリフらしいんだけど、
『手の上なら尊敬のキス。
額の上なら友情のキス。
頬の上なら満足感のキス。
唇の上なら愛情のキス。
瞼の上なら憧憬のキス。
掌の上なら懇願のキス。
腕と首なら欲望のキス』
だってさ。ロマンチックだよね〜!」
「ああ、フランツ・グリルパルツァーの『接吻』だな」
一人で乙女のようにはしゃぐ真に、黙々と手製の弁当を食していた北斗が告げる。
「おお〜、氷鷹くん知ってるんだね!さすが演劇部!」
「いや、たまたま知っていただけだ。俺よりあんずの方が、こういうことは興味あるんじゃないのか?」
そこで期待や好奇心の篭った3人の目が少女に向けられる。あんずは丁度卵焼きを口に放り込んだところで急に水を向けられたので驚いたような顔をしたが、むぐむぐと急いで咀嚼して飲み込むと箸を置く。
それから少し考え込んで一言。
「そういうことは、よくわからない」
それだけ言うと今度は唐揚げに箸を伸ばした。
「う〜ん、あんずらしいなあ」
心底そう思ったのでスバルは呟いた。色々な苦楽を共にしてきて、あんずのいい意味で女の子らしくない性格がわかっていたし、それを好ましく思う人間が多いことも知っている。
「でも、あんずちゃんだって憧れたりはしないの?その……キ、キスとか……?」
「ん……まあ、多少は憧れも、あるかな」
だから真の質問に対するその答えは少し意外に思えたのだ。わかっているようでわかっていなかったと言えばそれまでの話だが、しかしこの時スバルは彼女の認識を改めた。
『あんずも女の子なんだなあ』、と。
――――――
そんないつかの昼休みを思い返しながら、スバルは練習室の床で丸くなって眠り込んでいるあんずを眺めていた。
時刻は5時半を回り、そろそろ用事のない生徒はほとんどが家路についている頃である。窓から差し込む夕日が、教室を、そしてあんずを染めている。
眩しそうに眉間にしわを寄せたあんずのため、スバルはすぐにカーテンを引いた。すると再びあんずの表情が安らいだものになる。
(あんず、朝からちょっと眠そうだったもんなあ。起こすのはもう少し暗くなってからでもいっか)
それから練習室の床に座り、あんずの表情をまじまじと観察する。
いくつもの仕事を抱え今や敏腕プロデューサーと呼ばれるまでになった彼女だが、それでもすやすやと眠る顔は幼くて垢抜けない、どこにでもいそうな、普通の女の子だった。
最近スバルはあることに気がついた。あんずを見ているともやもやするのだ。それも、決まって他のユニットの人間と一緒にいる時。いくら感情に鈍感なスバルであっても、その薄暗くて後ろめたい、『キラキラしてない』感情の正体はすぐにわかった。
突然、うぅん、とあんずが小さく唸る。起きたかと思いながら見守っていると、もぞもぞと体を仰向けにしてまた健やかな寝息を立て始めた。
いけないと思いつつも、スバルはあんずの無防備に晒された柔らかな膨らみから目が離せなくなる。そして、あの日の昼の会話の、その続きを思い出す。
―――――――
スバルは『キスの意味』についてのWEBページを真に見せてもらい、それから首をひねった。
「ねえねえウッキ〜、それじゃあここに書いてあるとこ以外にキスしたらどうなっちゃうの?」
「ああ、実はこの格言には続きがあってね!」
そして人差し指を立てた真が得意気に言葉を続けようとしたその時、北斗が口を挟んだのだ。
「『さてその他は、みな狂気の沙汰』」
「ああっ、氷鷹くん先に言わないでよー!」
激しく落ち込む真を慰めるように撫でるあんずを横目に、スバルはまた首をひねる。その様子に理解していないと悟ったのか、北斗はこうも続けて言ったのだ。
「人に見せるべきではない、ということだ」
―――――――
なるほど確かにこんな気持ち、誰にも見せられないなあなどと考えながら、スバルはそっとあんずに近づく。跨がるような体勢になって、その胸元をじっと見つめた。
緩やかに上下するそこから目を離さないままに顔を近づけていき、彼女を起こさない程度に優しく、でも出来る限りの強さで唇を押し付ける。スバルの唇があんずの胸を少し歪ませ、それが心の中の何かを満たすような感覚があった。
唇を離すと、すぐにあんずから少し距離を空けて座りなおす。自分がしてしまったことの罪悪感と背徳感で頭がぐちゃぐちゃになりながらも、確かにスバルは満たされていた。
彼女は、まだ目覚めそうにない。
(ねえ、あんず)
スバルは心の内で語りかける。
(あんずを俺だけのものにしたい、なんて考えちゃうのはさ)
あんずは答えない。
(やっぱり、狂気、かなぁ)
眠り姫は、まだ目覚めない。
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