ラブロマンスの鼓動

 失敗した、とフロイドは悟った。

 週二日の貴重な休日、フロイドがオンボロ寮に押しかけた際、監督生は大掃除に精を出していた。彼女は日々オンボロ寮をオンボロから脱却させたいと言っていたし、そもそも事前に連絡をしてから訪問しなかったフロイドが悪いのだが、成り行きで掃除を手伝う事になってしまった。
 そこまでなら、まだ良かった。フロイドも、掃除に関しては気分が向いたし、使っていない部屋を空けては埃塗れになったり不気味な絵画を見つけて笑い合ったりして、それなりに楽しかった。それに、これを機に窓に防護呪文をかけて割られにくくしたり、見通しが悪過ぎて不審者に潜んでくださいと言っているようだった庭の低木も刈ったり、フロイドが満足するよう屋敷中を弄る事ができた。男子校の真ん中で女子が小動物じみたモンスターと半透明のゴーストしか居ないボロ屋敷で暮らすのは心許無いと常々思っていたのだ。何せ、監督生はフロイドの可愛い小エビであり、付き合い始めたばかりの恋人なので。それはもう立派な庇護対象だった。大掃除がいつの間にか大掛かりな肉体労働になっていた事だって、文句がある筈もない。
 それどころが、埃塗れになった事を口実にオンボロ寮の浴室を借りられた時は、上手く行き過ぎていると思った。


 だが、風呂上りのフロイドを待っていたのは、先に風呂に入って頭を乾かしている恋人ではなかった。
 彼女は濡れた髪から滴る水をタオルを掛けた肩で受けたまま、旧型のテレビに食い入っており、フロイドなどまるで眼中になかったのだ。
「……ソレ動いたんだぁ」
フロイドは、監督生の座るソファの空いているスペースに尻を突っ込んで存在を主張した。粗末なソファが、二人分の重みを受けて悲鳴を上げた。しかし監督生は、テレビから眼を離さず、最小限の頷きで肯っただけだった。

 テレビは、倉庫の整理をした際、フロイドが見つけた。
 埃を払って、コードやリモコンなどの付属物を整理したものの、フロイドには余りにも古ぼけたものだったから存在をすっかり頭の隅に追いやっていた。何なら、粗大ゴミとして出すべき物と認識していた。
 ところが、監督生は学園長という仮初の保護者からスマホの利用も最小限にするよう言い含められており、映像コンテンツに触れる魅力はずっと大きかったようである。フロイド不在の間に勝手に、監督生はテレビのセッティングに成功したようであった。画質の悪い画面に映る二枚目俳優を、彼女は瞬きも惜しんで凝視していた。それも性質の悪い事に、ベタな恋愛ドラマだった。陳腐と予定調和の煮凝りみたいなそれは、フロイドが最も退屈を覚えるジャンルだ。
 テレビなどさっさと処分すべきだった、とフロイドは口をへの字に曲げた。

 フロイドは、ブラウン管に恋人を奪われた。
 清純派と名高い女優を二枚目俳優が大仰な動作で抱き締めれば、その横顔の接写に監督生が膝の上で手を握り込んだまま陶然とした。
「小エビちゃん、チャーミー王子のどこが好きなわけぇ?」
フロイドはあまりメディアコンテンツに興味が無い。王子と渾名されるその俳優の本名はもう少し長ったらしいものだった気がするが、全く覚えていなかった。画面の男もただ顔の整った面白みの無い男としか思っていなかった。どちらかと言えば、大衆向けの爽やかな笑みを貼り付けて、大衆向けの甘い言葉を諳んじる、整い過ぎた男の偶像は薄ら寒いと感じてすらいた。それがたった今、完全な嫌悪に変った。こんなんどこがいいの、と不機嫌を隠しもしない。マザコンだの整形だの親の七光りだのと、然して関心の無かったありきたりなアンチコメントを引用してみる。
「彼、チャーミーっていうのね」
上の空の返答に、フロイドは再び失敗した事を悟った。

 君をこの世界で一番大切にするよ。永遠に君を愛するよ。世界の全てが敵に回っても君の味方になるよ。
 チャーミー王子がフロイドに頭痛を催させそうな甘ったるい声で宣言した。左右対称に整った上品な顔が、大写しになる。金髪に、深みのあるヘーゼルの瞳。メディアや女達は彼を挙って王子様と称する。万人の為に作られた偶像の美青年。
 なおも最悪なのは、フロイドのウツボ特有の鋭過ぎる嗅覚が、監督生があの偶像に対して緊張と昂揚の匂いを発していると認めている事だった。
 フロイドは、悍ましさのあまり仰け反った。粗末なソファの気休めみたいな低い背もたれは、フロイドの上半身を殆ど受け止めず、フロイドは自身の真後ろを見ることになった。上下が逆さになったフロイドの視界には、テレビの付属品が入っていたダンボールの中で、グリムが猫のように寝こけていた。呼吸に合わせて上下する腹と揺れる尻尾以外に動きの無い光景だが、チャーミー王子の接写に比べたら数億倍は良かった。
「気っ色わり〜。この世界で一番なんて、大安売りしすぎ」
漸くエンドロールが流れるが、クレジットの向こうではハッピーエンドな結ばれ方をしたヒロインとチャーミー王子が長ったらしいキスをしていた。曲に合わせてややスローモーションで流される映像は、どれだけ唾液を交換すれば気が済むのだろうという嫌悪をフロイドに抱かせた。だが、監督生の眼には鼻の角度も眼の閉じ方も、全てが完璧に映っているのだろう。


 フロイドは、この女がこんなにもロマンチストだった事を初めて知った。
「小エビちゃん、こーいう気障な男がタイプなワケ? しつこそう、つか趣味わりぃ」
思えば、フロイドは彼女に気障な台詞を吐いた記憶に乏しかった。この世界で、なんて大仰な比較をした事もない。世界の全てが敵に回っても君の味方になる、なんてよく分からないシチュエーションを想定した事もない。フロイドに出来る事は、気が向いた時に勉強を教えてやる事と、学園の馬鹿な騒動から手回しと武力行使で解決できる範囲で守ってやる事と、背に乗せて泳いでやる事くらいだ。調子に乗って箒の後ろに乗せたら植木に突っ込んで鎖骨を折ったので、もう二度とやる予定は無い。フロイドは、自分に出来る範囲をよく知っている。よく言えば現実的、悪く言えばドライな男だった。
「そう? 私は素敵な話だと思うわ。格好いい人だし」
フロイドは、長い舌を大きく突き出した。最高に酷い顔だった。
 フロイドは、自分の容姿が人間の雌に好かれることをよく知っていた。高い背も、浅瀬の海の色をした髪も、その中に一房垂れる漆黒も、金とオリーブの虹彩異色症も、甘い垂れ眼も、人を惹き付ける要素だと知っているし、それを有効に使ってきた。慇懃で表情を崩さず着崩しもしないジェイドよりフロイドを選んだあたり、彼女は行儀の良さより野性味や奔放さに色気を感じる性質なのかと思っていた。左右対称の金髪美青年とフロイドは、まるで方向性が違うではないか。

 フロイドの落胆を余所に、監督生は未だラブロマンスの余韻を引き摺っていた。
「ねえ、フロイド先輩。私の事、どれくらい好きですか?」
「エッ、嘘でしょ、オレにそーいうコト聞くワケ?」
脳味噌の検閲を一切通さずフロイドは不快を表明した。だって聞いた事ないんですもの、と監督生は案外めげない。フロイドの中では、監督生に好きだと言われて、存外愉快だったので二言返事で了承した辺りからその程度の確認作業をとうに終えたつもりでいた。発情する雌の匂いなど、種族が違えど大体は分る。
「ええ、いいじゃないですか。私にはこういう甘酸っぱい話する女友達も居ないんですもの」
監督生の友達は、皆男だ。彼女の女友達は皆、彼女が突然追い出された異世界に置いて来たままなのだ。この男子校でしか暮らした事が無い上に、余所で遊ぶような金も無いのだから、狭い交友範囲も当然だ。聞けば憐れな話だが、慈悲の精神に基く理念を掲げたオクタヴィネル寮生は、対価の無い相手には無慈悲な事で有名だった。フロイドも例外ではなく、同情で動くような不可解な精神構造はしていなかった。
「……ジェイド先輩に、フロイド先輩って私のことどれくらい好きなんでしょうかって聞くべきなんですか?」
「絶対やめて」
尤も、フロイドの扱いは監督生も心得ている。彼女とて、今更自分がこの世界の爪弾き者だからと言って、俯いてばかりいるような性質でもなかった。フロイドはその気丈さを気に入っていたし、そうでなければこの女と付き合ってはいなかった。

 監督生は、至極マイペースに話を進める。
「私は勿論、フロイド先輩をこの世界で一番愛していますよ」
フロイドの想定の中で、一番陳腐な台詞が来た。
 だが恋とは不思議なもので、好いた女の口から出た言葉なら、そのクオリティには眼を瞑ってしまえるし、機嫌も上向きになる。
「えー本当に?」
冗談めかして聞き返すフロイドの声が、ワントーン上がった。
 本当ですよ、と監督生がフロイドの膝に登る。低いソファに腰掛けたフロイドの長い脚は、脚を曲げると膝の高さが腿を越えている。監督生は重力に従って膝を滑って、フロイドの下腹の上に納まった。乾ききっていない髪から、同じシャンプーの匂いがした。
「チャーミー王子よりぃ?」
「それは勿論」
妬いていたの? と監督生がフロイドの手を取る。可愛い人、と桃色の唇が囁いた。彼女の手は人魚より熱くて心地良い。その熱を感じ取る為に、フロイドの手に血液が優先的に回されていく気がした。熱が伝染するように、フロイドの掌が汗ばんだ。フロイドが人間に変身した際の楽しみは、厚い皮と水掻きのあった手が繊細な作業のできる薄い皮膚になることだ。細い指に爪をなぞられたり、指の股を擽っられたり、掌にのの字を書かれたりする感触がしかと伝わる事だ。ベタベタされるのは好きではないフロイドだが、この女に愛でられるのは悪くなかった。
「だって私、チャーミーさんがマザコンだって少しも困らないもの。画面の中の人よ」
多分、明日のニュースで芸能界引退を表明したとしても「ちょっと残念ね」で終わるコンテンツだ。フロイドもそれくらいは承知だが、例え現実にチャーミー王子そっくりな紳士が乱入してきたとしても目移り一つすべきではないのだと、フロイドの独占欲が抗議する。

 フロイド先輩は? と聞かれる前に、唇を吸った。
 ドラマのような、執拗なキスではない。唇を啄ばみ合うような戯れだ。
 彼女と長ったらしいキスをしたのは最初の一回きりだった。舌を引っ張り出して絡め合えば、途中で血の味がして、フロイドは彼女の血と唾液を夢中で啜った。最高に興奮した記憶もあるが、彼女の柔い舌の惨状を見て血の気が引いた。彼女はフロイドの鋸じみた鋭い歯に文句の一つも言わなかったが、今では舌を入れるのはフロイドからの一方通行だ。

 彼女はフロイドに文句を言わない。
 箒の後ろに乗せられて墜落した時も、舌をスライスされかけた時も、痛みに呻こうがフロイドに愛想を尽かす事は無かった。可愛い人、の一言で済ましてくる。彼女に言わせれば、可愛いは無条件降伏のサインらしい。格好良いのは格好悪ければ幻滅するし、美しいものや綺麗なものは崩れれば損なわれる。可愛いは、不完全への許しだ。格好悪くても崩れても損なわれても、愛せてしまう。存在するだけで愛おしさが増す。何をしても敵わない、そういう種の愛なのだと。
 その理屈で言えば、フロイドは彼女に大変愛されていた。
 デートに当日に乗り気でなくなってキャンセルした時も、フロイドから誘った映画館で一時間近く熟睡していた時も、飽き性や気分屋を理由に許された。今日とてアポ無しの訪問でも追い返されず、彼女が夢中で見ているドラマに暴言を吐こうが苦情は無いし、ラブロマンスごっこに付き合うのを渋っても幻滅されないし、今こうして回答を先延ばしにしているのも許されている。

 彼女はフロイドの気紛れな性質に合わせて、常に己を最適化してきた。
 その底無しの受容に、フロイドは見事に沈んでいる。人魚なのに溺れているな、という自嘲が頭を掠めては息継ぎのようにキスをした。監督生から、恍惚と昂揚の匂いがした。

 フロイドは漸く観念して、握った拳を突き出した。血管の浮いた手の甲だった。
「オレはねぇ、小エビちゃんのこと、こんくらい好き」
重さで言えば三百グラム程度。そのサイズに、監督生が小首を傾げる。
 この世界、なんて莫大過ぎる比較範囲を出した女は、フロイドの拳をしげしげと眺めては懸命に言葉を探していた。
「……フロイド先輩のお口になら、入っちゃいそうですね」
その大きさを責めるでもなしに、彼女は拳に手を添えた。フロイドの手は、やはり握った状態でもそれなりに大きい。しかし、世界という抽象概念に比べたら、きっと小さい。人を殴り慣れた平たい拳に、未練がましい指が這う。
「昨日もそのサイズでしたか?」
「そうだよ。ずっとそう」
彼女は、フロイドに明日の事を聞かない。
 前々から約束していた事でも簡単に覆す気分屋に聞いても意味が無い、という方が正しい。彼女がそちらの方面に最適化したのは完全にフロイドが悪いのだが。
「じゃあ、仕方が無いですね」
また彼女がフロイドを許した。正直ですね、フロイド先輩らしいですね、可愛い人、愛しい人。無限の受容がフロイドに降り注ぐ。

 彼女はきっと、世界で一番大切にすると言われなくても許す。
 永遠に君を愛せるか分からないと言われても許す。

 病める時も健やかなる時も愛すると誓われたら、手放しで喜ぶだろう。そして明日の事は信じずに頷く。
 きっと彼女は、フロイドが彼女に飽きたと言い出しても許す。フロイドを愛したまま、別れる事を許す。
 フロイドは、世界の全てが敵に回っても君の味方になるなんて、抽象的な事は言わない。明日も愛しているくらいなら言う。明日のフロイドの行動に保障ができるかは兎も角、今は本当に明日も愛しているだろうと思うからだ。
 この世界で一番なんてものに意味を感じはしない。彼女はこの世界のほんの狭い部分しか知らないのだから。彼女はこの世界ではない世界から来ている者なのだと、フロイドは知っているから。

 フロイドは、彼女と同質の愛を返せない。
 フロイドは、ブラウン管越しの男にも嫉妬を向けるし、我儘も言うし、気分で彼女を振り回す。それを許容する底無しの受容の中を泳ぐふりをして沈んでいる。同じだけ彼女の我儘を許してやる度量が無い事を自覚していた。
 例えば明日、フロイドが彼女の元を去ったとしても、彼女は飽き性だからとか仕方が無い人だからで許すだろう。
 けれどフロイドは、彼女がこの世界を去るとしたら、元より向こうの世界の人だからと許せるとは思えなかった。それを許す事が愛だとするなら、あまりにもぞっとする。


 握り拳一個分、フロイドが持っていられる愛の大きさ。重さにして約三百グラム。
 凡そ心臓の大きさだった。
 
 彼女の体温があるだけで脈を早める、愚かなフロイドの心臓の大きさ。
 彼女に怪我をさせた時、これ以上無く冷えて締め付けられた心臓の重さ。
 それだけは確かに、フロイドが彼女に約束していい愛だった。



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