契約不履行

 叔母はきっと、此の世の者ではない。
 私は自分と瓜二つの姿をした叔母について、そう確信している。

 母と叔母は、一卵性の双子だった。
 けれど叔母は、高校生になる筈だった日を境に行方不明になり、四年後に帰ってくるという不可解な事件に巻き込まれていた。それ以来、何もかもがおかしくしてしまったのだと、私は母から聞いていた。
 叔母は、歳を取らない。高校生くらいの若さのまま、今日の日まで永遠に老けずにいる。今では、双子の母より、私と姉妹に見えるくらいだった。それも恐らく、後数年で私は叔母の外見年齢を追い越すだろうという予感があった。この奇怪な身体について、叔母は「人魚を食べたの」と説明した。私は奇怪な事象には相応に奇怪な原因があるものだと思っているので概ね納得していたが、父や祖父母は精神もおかしくなっているのだと彼女を恐れた。

 異端を恐れる親戚達は、奇怪な事を話す叔母を恥じ、他人の眼に触れぬように別荘とは名ばかりの牢に閉じ込めていた。別荘は、避暑地の扱いだけれど、水辺は遠くて標高ばかり高い。人目を避けて暮らす以外の用途の分からない立地だった。

 私が中学生なった辺りから、長期休暇には決まって叔母の世話を任された。
 主な仕事は、叔母が外に出歩かずに生活できるよう、買出しなどの支援をすること。叔母に鏡を見せないようにすること。この二つだ。後者は、叔母が「向こうの世界では鏡で移動が出来た」というのを真に受けての事だ。叔母の事を狂人の戯言と決め付けているのに、心の中では信じているようで、滑稽な規則だった。これで日給五百円。労働の対価としては不当だが、子供の手伝いに対して支払うには高い駄賃だと思う。これは、私への口止め料でもあるそうだ。


 高校生になり、せめて夏季休暇は賃金を上げてほしいと交渉したが、悉く却下されて傷心のまま夏が来た。
 叔母の世話が終わった脚でアルバイトにでも行ってこいというのが、父親の見解だった。父は早くに亡くなった母の分まで私の養育に奔走してくれており、その余りに大きい恩がある分、私はこの手の交渉は不利だった。
 結局、私はそれに従って、叔母の別荘に寝泊りしつつ、山の麓からバスで十数分揺られた先の海岸で短期アルバイトを始めた。海の家の売り子と、閉店後の海岸清掃だった。昼は木立に留まる蝉という蝉が鳴き喚く上に夕方から夜は鳥と蛙が煩いことこの上無い別荘にと比べて、人々の笑い声や漣の音で満ちたビーチは私の性に合っていた。

 しかし私は、叔母を嫌ってはいなかった。叔母は優しいし、料理が上手だからだ。頭の固い父よりも話が合う。たまに宿題も見てくれる。こちらの高校に通ってはいないので、古典と英語は悲惨だが、数学と化学がそこそこに得意なようだった。
 それに叔母は決まって、私と居る時が一番嬉しいと言った。私に学校がある時は別の親戚や業者に世話を頼むらしいが、長期休暇に私が来る事だけが楽しみの人生なのだと思うと、庇護欲を誘った。ら分、私はこの世界で唯一の叔母の理解者だった。
 
 それに私は、叔母が行方不明の間に体験したという此の世ではない何処かの話を聞くのが一等好きだった。夢見がちな性分の所為か、叔母の語る世界に行ってみたいとすら思っていた。
 それらはいつ聞いても登場人物や設定に一貫性があり、とても狂人の戯言とは思えなかった。中でも好きな話は、奇天烈な伝統的法律を遵守しようとする学生達の話と、努力家の蛸の人魚の話だった。砂漠の大富豪の長男に仕える従者の話と、王様になれないライオンの第二王子の話は、世知辛くて少し苦手だった。
「今日は暑かったから、怖い話が聞きたいの。何かある?」
私は食料品の買出しから帰るなり、叔母に催促した。四年間の出来事なだけあって、そのレパートリーも豊富だった。面白い話は幾らでもしてくれた。
「……じゃあ、人魚の話をしましょうか」
叔母は暫し考えて頷いた。
「蛸の人魚の話?」
私の好きな話に出てくる蛸は、名前が長い。アズール、の後に続くファミリーネームは美しい響きの名だった気がするが思い出せず、ずっと蛸の人魚と呼んでいた。
「うーん、蛸の人魚の友達の話かな。私が悪い鏡に魅入られた時、助けてくれたウツボの双子の話」
「分かった。リーチ兄弟でしょう。奔放なウツボと慇懃なウツボ」
「そう、フロイド・リーチと、ジェイド・リーチ。私の大切な人たち」
そう語る叔母の目は、いつも遠くを見ていた。
 懐かしい思い出と大切な人達を忘れまいとする健気な語り口と、寂寥を感じさせる瞳が、私の胸まで絞め付けた。これが全て妄想なら、それはそれで才能ではないかとすら思う。

.

 その話は、叔母が向こうの世界でお世話になっていた全寮制学園で二年目を過ごす初夏の事だった。

 叔母は、自身と相棒のモンスターしか所属しないオンボロ寮の前に、壁掛けの鏡が落ちているのを見つけ、持って帰った。
 貝殻とシーグラスに彩られた額縁が美しい、透き通るような傷一つ無い鏡だったからだ。叔母はいつも金欠で、可愛いインテリアを揃えるような余裕も無かったので、この鏡を大層気に入った。廊下の壁に掛けて、外出前に必ずその鏡で顔をチェックしてから寮を出た。毎日必ず鏡面を拭き清めるなど、とても大事にしていた。
 けれど叔母は、一週間程したある日、それが禍を呼ぶものだと知った。
 いつものように鏡をチェックしていたら、急に視界が暗転したのだ。突然眼が見えなくなったと思った叔母は、眼を擦った。そして、瞼の感覚が無い事を知った。瞼だけではなく、眼鼻の凹凸や眉や睫すら失って、顔が茹で卵のようなのっぺりとしたものになっている事を指先の感覚で悟った。あまりの事に呆然として、助けも呼べなかったそうだ。
 今の叔母に真っ当な顔があるのは、その日偶然にも寮を訪ねたウツボの人魚達のお陰だった。奔放なウツボは、叔母を小エビちゃんと呼び、気まぐれに寮に押しかける事があった。慇懃な方のウツボが連絡も無く寮を訪ねてくるのは珍しい事だったが、その日は本当に幸いだった。
『小エビちゃん、鏡に顔を盗られちゃったんだねぇ』
奔放なウツボは、叔母の様子を見るなり廊下の鏡が原因だと即座に看破した。叔母は魔法だの呪いだのには滅法疎かったが、その世界の学園の生徒達は例外無く魔法を行使できた。その彼等が言うには、鏡は空間と空間を繋ぐ呪いに適した媒体なのだそうだ。
『ああ生臭い、水棲人達の呪いだ……奴等、原始的な生き物のくせにその手の呪いは大得意なんです』
慇懃なウツボは、鏡にかかった呪いについて叔母に教えてくれた。水棲人とは、人魚よりうんと理性も知性も低い魚寄りの魔物で、人でも何でも海に引きずり込んでしまう下等生物だと。叔母は混乱と恐怖も相俟って殆ど理解できなかったらしいが、知らぬ世界の物を対価も払わず安易に得てはいけないのだと教訓を得た。
 彼等は、叔母の顔を水棲人から取り戻すと請け負った。
『オレたちが助けてあげるから、ずっとオレたちといてよ。小エビちゃん、約束だよ』
彼等は優秀な人魚だから、水棲人を恐れなかった。鏡を検分しての水棲人の居場所を割り出すや、早々に海に潜っていった。

 人魚達の帰還を叔母がどの程度待ったのかは曖昧だ。
 顔の無い状態でいる事に叔母の精神が耐えられそうになかった為、人魚達が叔母を魔法で眠らせたからだ。ただ、叔母は見知らぬ海底で人魚を見た記憶があると言っていた。見知らぬ真緑の水棲生物を長い尾で絞め上げるウツボ達を見たと。それが夢や記憶の混濁が見せた幻の類なのか、海へと奪われた眼球が見ていた景色なのかは定かではない。

 叔母が意識と顔を取り戻した時には、鏡は撤去されていた。鏡のあった廊下は、腐った魚の臓物でも擦り込んだのではないかと疑いたくなる饐えた異臭と、磯の温い生臭さで満ちていた。鏡に魅入られていた時は、それにすら気付かなかったのだ。
『鏡ってのはねぇ、水と相性が良いんだよ。水鏡ってわかる? あんま覗き込まない方がいいの。その眼はまだ小エビちゃんのもんだから』

.

 叔母は、あの人魚達は恩人なのだと言った。
 けれどその声には、どこか緊張があった。
「私ね、彼等との約束を違えてしまったの。ずっとあっちの世界にいるって約束したのに、こちらに帰れるって聞いたら妹の顔が恋しくなっちゃったの」
私はあまり母と喋った記憶が無い。私が就学する前に海難事故で亡くなったと聞いている。ただ、幼かった私の記憶に残っている限りでは、叔母を父のように狂人だと断言する事も無ければ、哀れな人とも言わなかった。
「あなたも鏡を覗き込まない方が良いかもしれない。当時の私の顔に似てきた気がするから。海にも近付かない方が良い」
叔母は鏡を見ない。けれど、その評価はあまりに正確で、私はまるで鏡そのものから忠告されたような錯覚を抱いた。


 とは言え、海のアルバイトは楽しい。
 昼は海の家で給仕をしたり休憩時間に海で泳いだりするのも好きだったが、私は夜の海が殊に好きだった。遊泳禁止時刻を知らせるアナウンスを合図に、海水浴客達が汚したビーチのゴミを拾って回る。その黙々とした作業は不人気ではあったが、夜の静かな海は風情があった。
 夜の海は、ただ波の音だけが聞える。
 高校生を深夜徘徊させる訳にはいかないと、店長は私を早く返したがるが、私は退勤後もこっそり海に残る事があった。バスの最終出発時刻を過ぎると結構な距離を歩かなくてはならないが、ここは学校や自宅の周辺とは違って、よく星が見えた。
 何より、人の笑い声に満ち満ちていた昼間の猥雑さが嘘のように静かで、夜は世界が広く感じる。

 「コエビチャン?」
入江に青い人影を見たような気がした。砂浜を長いものがズルズルと這う音がする。私は止せば良いのに言い知れぬ好奇心に負け、入り江に近付いた。
 途端、波に巻き付かれるようにして、海に落ちた。

 自分の口から空気が出ていくゴボゴボという音に混じって、それの喋り声が聞えた。耳障りで、ノイズの酷い声だ。水中で瞬きもせず、二対のヘテロクロミアが私を凝視する。
「小エビチャン?……違ウネ、スコシ若イ」
夜でも分かる鮮やかな金とオリーブの眼に、身が竦む。異形が二匹。彼等に脚と呼べる物は無く、胴が長々と続いているような太い尾が揺れていた。私の腕を掴む手には、水掻きがあった。藻掻いても腕を解けず、息が吸えない。
「コドもデハ?」
もう一方の異形が応答する。歪な発音。彼等の耳の辺りには鰓らしき突起が付いていた。喋る度、上下する顎関節に合わせて鰓が動く。
「ハ? 許サねーシ」
右眼が金色の異形が、太い筋肉で満ち満ちた重厚な尾を私の身体に巻き付けた。蛇が獲物を絞め殺すような動作で、どんどん隙間を奪われて、圧迫された肺から空気が逃げていく。
「フロイド、子殺しは嫌われますよ」
私を助けたのは、左眼が金色の方の異形だった。私の首根を掴んで、海面に引き上げる。海面から顔が出た瞬間、私は死に物狂いで息を吸った。服から海水が滴る。海に浸かったままの股座から、生暖かな小便が漏れていった。死ぬかと思ったので、膀胱が緩んだのだ。
「今更でしょ。それよか、コッチの世界に未練なんて残さない方が良くね?」
彼等の声は、急に滑らかなものとなった。恐らくは、水の外だからだろう。大気の中では、彼等はの人間と変らない発声をしていた。今更ながらに彼等が男らしい声と顔をしている事に気付いたが、それは寧ろ私の恐怖を増幅させた。捕食者が持つ下位生物を魅了する機能とは得てして擬似であると、本能が警鐘を鳴らしていたからだ。
「確かに。しかし、コレに彼女の居場所を案内させる方が先です。ほら、貴方のお母様は何処に?」
その異形の口調は嫌に丁寧だった。叔母の話ならば、慇懃な人魚は奔放な人魚と仲が良くて、漫才じみた遣り取りを楽しんでいた。けれど彼等には、全く笑い所なんて無かった。捕食者の目をしている。冗談の一つも挟まず、何の躊躇も必要とせずに人を絞め上げる。
「こ、ころさないで」

 左眼が金色の異形が、私の眼をしかと見詰めて囁くように唱えた。
「そんなに怖がらないで」
それが慰めではないことくらい、考えるまでもなかった。金の眼を見ていると、頭がくらくらしてくる。水中の重い足をばたつかせて藻掻く。それでも異形の恐ろしいほど安定した体幹は微動だにしなかった。私を覗き込んでいない方の異形は、此方を冷めた眼で見ていた。
「力になりたいんです」
彼等の吊り上った口から、鋭い牙が覗く。過呼吸の一歩手前のように、呼吸が荒いまま制御できない。嫌に心拍数が跳ね上がった。訳も分からぬまま、殺さないでくださいと繰り返した。

 「ショック・ザ・ハート」

 呼吸が一拍止まる。高波のように恐怖がうんと押し寄せて、私はまた殺さないでくださいと叫んだ。そして、口が勝手に回り出す。
「母は死にました。海難事故だったけど、遺体が出てこなかった! 母さんが何処にいるかなんて知らない!」
何でこんな事を初対面の化物に打ち明けているのだろう。そう思うより早く、口調が雑な方がハァ? と恫喝じみた声で聞き返す。
「小エビちゃんが死ぬワケないじゃん」
何の為に食わせてやったと思ってんの、と尖った歯で爪を噛んだ。その左手は、薬指が欠けていた。
「フロイド、この娘の母は、彼女の妹君ではないでしょうか? もう姪がこのくらいに育っていても不思議ではない時間が経ってしまいましたから」
口調が丁寧な方が、私の頭の先から値踏みするような眼で眺めまわす。確かにそっくりな筈だと、二人が勝手に合点する。
「……ああ、あの小エビちゃんの偽者の仔ってワケ」
叔母と一卵性双生児だった母。
「そう、僕たちから彼女を奪った人間の仔」
妹の顔が恋しくなったとして此方に帰ってきた叔母。

 人魚と思われる瓜二つの男と、フロイド、小エビちゃんという呼称が、叔母の思い出話と符合する。その情報を一揃えした脳が、叔母の語る世界に行ってみたいなどと考えていた甘い夢想癖を嘲笑う。
 叔母は確かに狂っていた。或いは騙されていた。そうでなければ、こんな凶暴な異形達を大切な恩人など思える筈がない。
 叔母はやはり、此の世の者ではないのだ。


 気付くと私は、砂浜に寝ていた。
 海は異形達がいた夜など嘘のように澄んでいて、朝の太陽の強い光を反射して輝いていた。私は最終のバスどころか、始発のバスで帰った。車掌は私を奇怪な眼で見たが、幸いにも他に乗客が居なかったので揉めはしなかった。腕に残る大きな掌の形の痣が、夜の出来事を夢として片付ける事を許さなかった。食い込んだ爪の痕が、疼くように痛んだ。
 バスの中、私は自身のスカートのポケットに買った覚えの無い手鏡が入っている事に気付いた。貝殻とシーグラスに彩られた、美しい鏡だった。それを捨てられず、かといって叔母に見せる度胸も無く、自室として荷を置いている部屋に隠した。
 そしてふと思う。叔母の寮の前に、壁掛けの鏡なんて持ち運び辛いものを落としていったのは誰だったのだろうかと。そして何故、叔母の危機に偶然にもウツボの人魚達は寮を訪ねる事が出来たのだろうかと。

 叔母は姪の朝帰りを叱るかと思ったが、私の濡れたままの髪を見て酷く泣いた。私を強く抱き締めて「もう海に行っては駄目」と震える声で言った。
 その悲しみように、この人が正気なのかただの狂人なのかが分からなくなった。この人は呪われている。この人は、この世界に禍を撒き散らす。
 この人が帰って来なければ、私の母はまだ生きていたかもしれないのに。そんな根拠に乏しい疑念が鎌首を擡げては、叔母への憎悪と不信感が積もってくるようになってしまった。愚かしい疑念を振り払えない自身に対する自己嫌悪も相俟って、叔母と口を聞きづらくなった。あの日から私は、彼女に思い出話を強請っていない。海のアルバイトも辞めた。

 
 叔母が消えたのは、夏らしからぬ強く長い雨が降りしきる日だった。
 新しく始めたアルバイト先から帰ってきた時、自室の抽戸に隠した筈の手鏡が引き出しごと床に落ちていたのを見て、私は無感動に納得した。
 その頃には、私は父と頻繁に連絡を取るようになっていて、代わりに叔母と殆ど口を聞かなくなっていた。消えた叔母を捜索する際に、久しぶりに叔母の名を呼んだと気付いた。私はもう、叔母の理解者でも何でもなくなっていた。ただ、叔母が二度と見付からない事だけを、誰より正確に理解していた。

 叔母の別荘は、腐った魚の臓物に似た異臭と、磯の温い生臭さで満ちていた。



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